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生まれた日

また1つ歳を重ねる。

「年齢は単なる記号ですよ。」と患者さんと話すものの、誕生日は自分を見つめ直す良い機会だと思う。

年々、自分の誕生日に対して無頓着になる私に、

「誕生日は歳をとって大人になる日ではなく、産まれてきた日だから何歳になってもめでたいものだよ。」

と妻は言った。

こういう、自分一人では辿り着けない物事の考え方に触れた時に、あぁ、妻と結婚して良かったなとひっそりと噛みしめるのだ。

35歳。数字に意味はない。

しかし、大人になり、子供を授かり、親が年相応な身体の不調を訴えているのを見ると、健康に歳を重ねてこれたことが、何より尊いことだと感じる。

妻の言葉に倣い、家族や周囲の人の祝福に対して斜に構えず、素直に喜べる人でありたい。

インターネットの先に広がるインスタントでマクロなものよりも、先ずは自分の手が届く小さな温もりを大切にしていきたい。

生命も、生活も、人生も、海を超えたら同じライフ[life]だ。

神秘的な生命活動に始まり、雄大な人生が閉じるその時まで、生活は続いていく。世代を超えて繰り返していく。

ついつい子供を叱り、その痛みを手に残し、寝顔に触れながら後悔する夜がある。

帰省する度に、角が取れ、丸くなる親が温めた味噌汁を飲む朝がある。

子育てを通して、過去の親の気持ちを理解する事も、大人になったら分かってくれるかなと子供の未来に今の気持ちを託す事も、綺麗な相似形を成している。

「あなたの小さい時にそっくりね。」と孫を見つめるその先で、きっと親はあの時の子育てをやり直している。それを見て、ほんの少し時間が戻るような気がする。

17歳で理学療法士になろうと進路を決めた。その時はじめて知った仕事の名前だった。だけど、疑いもなく、理由もなく、天職だと思った。その選択の先に大学があり、入学式で隣に座っていた名前も知らない同級生が今の妻で、結婚し、一緒に暮らし、子供に恵まれて、今日が過ぎて、明日が続いていく。人生っておもしろい。

家族は社会の最小単位である。そのスケールを拡大し、どこで切り取っても相似形が見つかる。フラクタルな構造だ。

学生時代の恩師の教えや、新人の頃にお世話になった先輩の言葉、後輩指導や学生指導…遠くの誰かではなく、近づくほどに色濃く同型の相似を成していく。あの時の先生の一言が、先輩のアドバイスが、時を経て財産となっていることに気づく。教わったことは血肉となり、自分を通ってまた次の誰かに。縦に、横に、私の生活は誰かの生活に繋がって、誰かの生活がまた私の生活に繋がっている。

リハビリテーションに携わる。時には怪我や病気が、その人に何かしらの選択を迫る。

発端が望まれるものでなかったとしても、人は希望に向かって選択していくことができる。

そんな誰かの希望の選択を、間近で見てきた。そしてそんな分岐点の一つになりうるこの仕事を、疑うことなく選んだあの日が私にとっての大きな選択だったのだ。

人は選ぶことができる。あなたの選択はいつか誰かの選択と出会うだろう。

数年ぶりに顔を上げて人が集まる。その活気に懐かしさを覚えるほど、時間の流れは早い。

その中で誰もが、何度も何度も生き直し、また新しい自分を、新しい生活を、そして新しい人生を、いつでもスタートできるのだから、やはり「35」という数字に意味はない。

「明日は何をしようか。」

小さな選択を続けよう。

いつか『あの選択をしたから』と言えるから。

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