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2万字のメモが出てきた【12月7日】

昨日お風呂に入っているときに、ふと成熟って言葉がいいなと思って、携帯で検索しようと検索欄に「成熟」と打ち込んだら、Safariの下にメモが出てきた。なんだこれ?と思ってタッチしてみたら、2021年7月2日に書いたメモだった。なんだかこのタイミングで開いたことに意味があるんじゃないかと、全部読み返したらすげー時間がかかって、これ何文字あるんだろうと数えてみたら、2万字だった。今日はその中の言葉を残しておきたいと思う。

そもそもこの日に僕がなにをしていたのか、軽井沢にある「風越学園」という日本では珍しい幼小中一貫校を訪問していた。教育の中では有名な場所なので、名前を聞いたことがある人もたくさんいるんではないだろうか。
そんな風越学園で行われていた「風越みらいツクール」という企画に参加していた。もう3期が終わったらしいのだけど、僕はその1期に浪人期間中に参加していた。

この ”じっくり、ゆったり、たっぷり、まざって、「  」になる” プロセスを、全国各地の18歳から24歳の人たちとも一緒に分かちあいたいと2021年から「風越みらいツクール」を始めました。今年で3回めとなります。
具体的な進路や仕事のことを「  」の中に埋める前に、”私は、どんな「  」になっていくんだろう...”という問いを、多様な関係性の中で探り・確かめあう時間を重ねる中で、こんな私がいるんだ、という新しい気づきや、私はこういうことを大事にしたい存在なんだな、という再発見が一人ひとりの参加者・保護者・スタッフにありました。今年も軽井沢風越学園の子どもたちと数名の保護者、スタッフとの出会いとたくさんの「つくる」経験を通じて、”私らしい私の輪郭”を自分自身で取り扱えるようになることを願っています。

風越みらいツクールより

なので、私とは何か、どんな私になりたいのかを考えまくっている日のメモということなのだ。よくぞ文字に残しておいた俺!!!!

ということで、ここからはその当時のメモをそのまんま貼り付けちゃう。
ちょっと見やすくしたいけど、できる限りそのままで。

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ここ数日、自分自身と向き合うことが凄く多くて、これを発信すること自体も悩んだんですけど、もし、これを読んでくれる人がいるなら、どう思うんだろうって知りたくて書いてます。

そもそも自分自身ってなんだと思いますか。
あなたは、自分を定義することができますか。
僕は自分自身が分かりません。

凄く複雑な話だと思うんですけど、自分自身は他者性や社会性から切り離された時に生まれるものだと思います。もっと分かりやすくいうと、0→1を生み出せた時、それが自分自身であると言えると思います。でも、本当に0→1を生み出すことって可能でしょうか。
歴史上の偉人と呼ばれる人たちの発明は、誰かの思想に影響を受けたり、自身の体験や経験に基づいたものです。ということは、それは純粋な自己の産物ではありません。そう考えれば、我々は0→1を生み出すことはできないということが理解いただけるかと思います。

とすれば、今ここに存在している自分は何者でしょうか。
多くの社会や他者に影響を受けた自分は自分自身と言えるでしょうか。確かに、混ざり合うこと、その比率や混ざり具合や種類は自分で変えられるかもしれません。でもそれを自分自身として認識するのはとても難しいと思います。

なぜなら、言葉にしないといけないからです。
言葉にしないと、誰にも自分は伝わりません。社会で生きる以上はそれをしないという選択肢はないでしょう。なんらかの形で、相手に伝える必要があって、相手に伝えるということは、共通して認識できるレベルまで一般化することを指します。
となれば、本来感じていたはずの、混ざり合うことにおける比率や混ざり具合や種類のような、自分自身でしか感じることのできないものを、伝えることは難しいでしょう。
自分自身しか持ち得ない、この感覚を伝えることができない。

だから、自分自身って、他者性とか社会性から切り離されない限り、生まれることはないと思うんです。受取手を意識した瞬間、それは何かしら一般化された、共通で認識できるレベルまで落とし込まれる。とすれば、自分自身なんてものを感じることも定義することも、どうもできそうにないわけです。

だから、切り離されることを強く意識してみたんです。でも、他者の言葉はやっぱり響くわけですよね。むしろ、他者性とか社会性があるおかげで、自分自身を鏡写しにして構築していく感覚すらあるわけです。
でも僕はそれがどうにも納得いかないんです。
社会とか他者の中に自分自身を押し込んでいく感じがどうしてもしっくりこない。

そこで、何かいい方法はないかなと探したところ、対話に出会いました。対話ってよく聞くと思うんですけど、一体何なんでしょうか。会話ではありません。対話です。

僕は対話が目指すものは「共通了解」であると思います。理解ではありません。了解です。論理的に整理し、納得するのではありません。相手の真意や意味そこまで汲み取って納得するのです。
そう、だから対話って凄く難しいと思うんです。でも対話は、他者や社会に落とし込んでいく作業でありません。
ある意味で、伝わらなくていいという前提の上に成り立っていると言えます。なんというか、共通理解ではなく、共通了解である以上、相手とぶつかる必要があります。
それはそうです。自分の核になる部分に近づけば近づくほど、言葉では表現しにくくなります。そして、なぜ?の後に理由にくる部分は、自分の核に近い部分(動機や衝動)であると言えると思います。となれば、言葉ではなかなか伝わりません。
戦争体験者から、戦争の話をいくら聞いても、体験した人のその感覚を100%味わえることはないということです。でも、これをなるべく100%に持っていこうというのが、対話です。しかも、最も一般化されている言葉を媒介にして。

でも、対話は言葉だけで成り立っているわけではありません。間や空気や話し方や表情や声や、全身で伝えようとするものだと思います。そして、これはある意味で、相手にありのままを伝えるために、相手に伝わりやすいことを諦めている状態であるとも言えると思います。

小説や歌詞がそれに近くて、今まで使ったこともない言葉や表現が使われることが結構あると思います。あれって、純粋に自分の伝えたいことを好き勝手やっているだけだと思うんです。だから、よくわからんこともあるけど、でもそういうのがなんだか伝わっているように感じる瞬間もあるわけです。
だから、あれも一つの対話の瞬間だと思うんです。
そりゃ、対話なのに、相手が目の前にいなくてどうするって感じですけど、極論いなくてもいいと思うんです。他者性や社会性から解放されているから。逆にそっちの方が、届くんじゃないかとすら思ってます。

だから、対話って全然わかんないし、でも可能性があると思うんです。
ただ、誤解しないで欲しいのは、相互了解の前提には、相互肯定が必要であるということです。
相手を認める。相手には相手の考えがある。それを一旦は認める。その上で、自分をぶつけるんです。言ってしまえば、相手に伝わらなくていいんです。相手には相手の考えがあるんだから。それを最大限に認めた上で、ぶつけるんです。
これが相互了解へのプロセスだと思います。
相手を最大限認める。(相手には相手の考えがある)
だから、自分も最大限認める。(自分にも自分の考えがある)
その上で対話する。(ただ言葉を交わすだけではない)
切り離すと混ざり合うを同時にやっているような、そんな感じです。
言葉を媒介にしている限り、他者性や社会性からの解放はないので、自分自身を見つけることはできないのかもしれません。
でも、ただの他者や社会の集合体としての自分ではなく
他者や社会に伝えることを諦めた"あなた"の集合体は悪い気がしません。
まあ、もうこれは完全にエゴというか、自分勝手なので。
でも、僕の考えでいくと、常に切り離されることを望んでいるので、自分勝手が何よりの正義であるはずなんです。
だって、あなたのことも、社会のことも、何も意識していない。自分が第一なわけですから。
ということで、"あなた"と"わたし"の共通了解としての対話を
僕は探求してみたいと思います。

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ちょっとあまりに長いので、これについて今思うことはまた別の機会に書きたいと思います。
でも、言葉にして残しておくのって大事だなと改めて思います。

いつどんな瞬間に自分を救ってくれるか、わからない。
だから未来に対して願いを込めて、点を打ち続けておくみたいな感覚です。繋がるかわからないけど、未来に託してとりあえず今この地点に点を打っておく。それが自分を救うかもしれないし、救わないかもしれない。でも救われる可能性は増やしておいて損はなさそうです。

言葉にするってなんだろう。言葉にすることにはどんな価値があるのだろう?言葉を残しておくことにどんな価値があるんだろう?話した方がいい?書いた方がいい?

あなたにとって言葉とはなんですか。

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