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何世紀も先まで残る、形あるものを創りたい。

ふとiPhoneの中にある動画を見返してみた。
一番昔の動画まで遡ってみると、その動画は2016年5月27日に撮影されたものだった。
ロサンゼルスのトーレンスビーチをフェラーリの助手席に乗せてもらって、つい最近買ったGoPro6で撮影をしていた。

動画を見ると、その瞬間の記憶を思い出す。
懐かしいと感じ、あの頃はあんなこと考えていたな。と自分の思考の違いに驚き、そして少し成長を感じる。
僕は結局1時間ほど、こんな幸せな時間を過ごした。 

2年前からの動画を見返していると、あることに気づいた。
それは、自分はこの時から映像を撮り、その映像を形にしたかったということ。
GoPro6を買ったのも、このカメラで映像を作ろうと思って買ったことを、
動画を見て思い出した。
そんなカメラで作ってみた初めての映像作品は、今見てみると、
お世辞にもいい映像だとは言えない。
一日かけて作った映像がこんな出来上がりなのかと、理想と現実の違いに絶望していた僕は、買ってすぐのカメラをそれ以降使わなくなったのを覚えている。

でもあれから4年たった今、僕は映像を撮っている。
心の中から湧き出てくるものを無視できないのが人間なんだと思う。

僕はやっぱり映像を撮りたい。

あれから色々と紆余曲折があり悩んだけど、ここに戻ってきた。

初めは自分を撮っていた。
自分が映像の主役となり、映像を通して何かを伝えていきたいと思っていた。でも今は違う。
僕は映像を通して、誰かを輝かせたい、伝統や文化を伝えたい、想いを伝えたい、そして誰かの心にずっと残る宝物を作りたい。

カナダで出会ったイタリア人の友達がいる。
僕が彼と出会ったとき、彼はたった一つのカメラでドキュメンタリー映画を撮っていた。その作品はその後大きくなり、
カナダや母国のイタリアでとりあげられることになって、
彼は、20代イタリア人で最も影響力のある人物トップ10に選ばれた。

そんな彼は、お爺ちゃんの影響でカメラを始めたらしい。
お爺ちゃんが若かりし頃に撮った映像をみて育ち、
気づいた頃には自分でもカメラを持っていたそうだ。

僕はこのエピソードにとても感動した。
自分が撮った映像が孫に届き、もしかするとその孫の子供や孫にも届くかもしれない可能性を知ったとき、
映像は歴史を刻む、そしてそれは家族の宝物になると確信した。

100年後に動画というものがこの世に存在しているかは正直分からない。
もしかすると動画はもう古いものになっていて、何か新しいものに変わってしまっているかもしれない。
でもそんなことを考える必要はない。
自分はこの時代に生まれ、この人生のなかで動画というものに出会った。
ただ自分の心に従って、撮りたいものを撮る。
それは自分の欲ではあるけれど、僕は自分一人だけの為に動画を撮りたいわけじゃない。
誰かの為に撮りたい、自分の大切な人達の為に撮りたい。
そしてそれを残していきたい。

だからこそ流行りのものを追うのではなく、いつになっても変わらない普遍的な、最も人間らしいところを撮る。
それがいつの日か、世代を超えて誰かの心に響いてくれるようなことがあれば、僕の人生は少しばかり生きた価値を手にすることができるだろう。

Ryoma Kobayashi

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