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内側に在る光/色/温度等を表出させること

先日、「抽象画入門: 視点が変わる気付きのテクニック」という本を読んだ。

図書館で出会い、ぱらぱらみてみると「やってはいけないことは何もない」という文言に強く惹きつけられ、借りた。

直感は侮れない。素晴らしい文章と出会った。

理論が先にあるのではなく、自分にとっての形がより確かなものとして認識できた時には言葉も見つかる。手を動かすことによって言葉は後からついてくる。

抽象画入門: 視点が変わる気付きのテクニック

これは最近私が頻繁に思うことを摩擦無しにクリアに言語化してくれている。

制作しているのはネイルチップであり、緑凪というブランドそのものであるが、この本の主題となる抽象画から拡張しても充分活用できると思う。


侘び寂びという概念がある。
もちろん言葉としては知っていたけれど、芯から理解できていなかった。
昨日ふと、別の本を読んでいて侘び寂びという言葉出会った時、「緑凪が目指す境地はここだ」と理解した。

また、図書館では東山魁夷の画集も借りていたので何となしに開いてみたら、そこで心の凪を感じた。
心の凪とは、内省を越えた静さを感じる瞬間のことを指していて、これまた緑凪を通して目指している境地である。

自分がやりたいことは既に東山魁夷がやっていたことなのではと錯覚するくらい、私が希求するのはこういうことなのだと震えた。


そして、Instagramを通して伝えたい徐々に世界観が固まってきた。これまでに風穴を開けてくれたのは大体が本だった。フレーズや単語や時には絵で私の内側にある実体のない緑凪が輪郭線を帯びて世の中に生まれて形成されていく。

内なる意識を既に存在する言葉にばしっとキャッチされた感覚がある。


つまり、どういうことか。説明を試みる。

我々が生まれたとき、既に世界は言葉に満ちていた。
初めは意味不明な音の羅列だったものが塊となり、意味を形作る。
そうして幼年期に、例えば「ありがとう」の意味や使いどきを理解する。

このとき、
先に言葉ありきで始まり、今起こっている現象や気持ちを説明するという順序で体得していく。
ありがとうの場合は、何かを貰った時などにありがとうを言うということを親にさせられることが多い。みたいな感じで。

私が今回書こうとしている「内なる意識を既に存在する言葉にばしっとキャッチされる」というのは、上記の順序とは逆の流れがある。

自分の内側の気持ちや思いの存在に気づいて、まだそれには名前がないから存在しか気づけないのだが(つまり言語で説明される前の段階)、

帰納法的に、内側にある気持ちから自分の外側にある言葉を理解するみたいな感覚。
自分の外側にある というのは、自分一人の力ではうまく言葉にして説明できないときのことを指している。

例えば、なんかこの人とずっと一緒に生きていたい気がする。この人が悲しい顔するの絶対見たくない…あ、これが「愛」ってやつか…!的な感じです。よく歌詞でも、⚪︎⚪︎という言葉の意味を知った〜みたいなのあるけど、あれみたいな感じです。


無から有にするとき、この段階を経るのだろうか。

自然物を見て感じていた心の凪という感覚を、人工的に作り出そうとしている。

何かを作る時は、まず要素の因数分解を始める。
カレーであれば、材料、レシピ、器材、食器など、いろいろなカテゴリから必要なものを調べてピックアップする。
ただ、心の凪についての因数分解が、感覚レベルでしかできていなかった。私が思いつく言葉を並べても、何か摩擦が生じ、ちょっと違うニュアンスになるなあと思い不採用としたりして、なかなか進まなかった。

緑凪は既に走り出しているプロジェクトだ。 
とにかく、なんとか因数分解できた凪の感覚を頼りに作ってきた。そこには色も音も温度も、明確なものはなかった。
先の引用に立ち返ると、「自分にとっての形がより確かなものとして認識できた時には言葉も見つかる。」
緑凪を作りながら、考えてきた。
Instagramに載せる画像も、Twitterのプロフィール文も、アイコンも、まず先に作ってみて、感覚レベルでこれは違うな/これはいいなの繰り返しだった。

その繰り返しの中で、昨日やっと侘び寂びと東山魁夷に出会った。
そこには言葉で説明される明確さがある。
色で説明される思考がある。

すると、ただの靄だったものが、重みのある物体になっていく。
そうやって緑凪に影をつけていって、実体を浮き彫りにさせていく作業がこれから待っている。
頭の中の深い霧をインプットという風を吹かせて目指す方向をクリアにした感覚がある。
これからとても楽しみだ。

忘れたくなくて、自分のために書き起こした過程。

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