傷跡と付き合う話。

気づけば立夏だ。
ここ数ヶ月の日常がほけてしまうくらいに穏やかだったからかもしれない。陽気さを増してきた日差しのせいかもしれない。私は5月に入ったことに気づいていなかった。

そういえば、はじめて手首を切ったのも5月だったと思う。7年前、中学2年生だった。葛藤の最中を生きていたと思う。今も生きている。リストカッター、アームカッターだっ「た」とアスペクトを用いて表していいのかはまだわからない。半年は切っていない期間が続いているけれど、中学3年生だった私も半年自傷を我慢して、高校に入る頃に再開してしまったから。

誤解のないように明言しておくが、私は腕を切ったことを後悔したことは1度もない。可哀想だと誰かの気を引く気もない。私は私の中で完結している。けれど、傷は、自分を傷つける衝動性は、私と共存してきたものだから。おおっぴらに喧伝する気はないけれど、隠すつもりもない。もちろん公開する場合と相手とは、きちんと選ぶ。

傷跡自体はかなり薄くなっている。おびただしい数の傷をつけたけれど、どれも深くはない。薄茶色になった皮膚に白い線が幾本も走っている。わかる人でなければリストカットの跡だとバレないだろう。
傷を恥じてはいないけれど、一応誰かに見える場所だから少しでも見苦しくないようにと治す努力はした。欠かさず保湿をして、病院で貰ったビタミン剤も飲んだ。

それでも、例えば人に何か渡すときに手首が相手に向くとはっとしてしまう。二の腕の傷はまだ少し目立つので、ノースリーブのワンピースとか肩にスリットの入ったシャツとか、かわいいと思っても着るのをためらってしまう。お風呂屋さんで誰かが私の腕を見ていないかどきどきして、ちょっとタオルで隠してみたりする。強がっているだけで、少しは引け目というか、後ろめたさもあるかもしれない。

自傷をすることは、一生自分の傷と付き合っていくことなのかもしれない。今でも私は、それで何かが解決して救われるならリスカをしてもいいと思っている。傷跡と向き合う覚悟がないなら切るべきではないとも思っている。私は、目立たないとはいえ傷跡を、自分がもがいた証だと誇らしく思っている。それでも、傷という制限がない if が、少しだけ、少しだけ頭をかすめたりもする。

後悔をすることが若さなのかなと、深夜1時、ちらりと思った。

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