楽しいが分からない話。

打ち上げの途中に、非現実感に襲われた。
みんな、スクリーンの向こう側にいる感じ。
わたしだけ、ぽつんと、ひとり。
それはいつもの感覚だけれど、17歳の頃からこれを克服しようと思って試行錯誤してきたのに何も改善されていなくて、ショックだった。
過呼吸を起こしかけた。薬を飲んだ。
何も食べずにカルピスだけ飲んだ。なんの味もしなかった。

誰かとご飯に行くのは苦手。
大学入ってから直そうと頑張ったつもりなんだけど克服できてない。
ほとんど何も食べずに帰ってきたりする。
自分以外の人間が楽しそうにしているなら、それを眺めるだけで十分で、輪の内側に私は介在してはいけないと思った。

「楽しい部活にしたいね」と話していた。
楽しい、ということがわからなかった。
そもそも他の人は楽しさを求めてコミュニティに所属していることに今さらながら気づいた。

私はある一定の時期の記憶に縛られて、そこでいろんなことが止まってしまっている。多分。
それは特殊な経験からそうなったわけではなく、色んな文脈の積み重なりでそうなった。簡単に言えば環境ではなく私が悪い。
だから先入観とか固定観念とかでガチガチ。

わからない。いろんなことがわからない。
楽しいもおいしいも、綺麗も嫌いもわからない。

あなたは本が好きなんだね、と規定された。
規定されたから、その道で認めてもらおうとしてきた。
知識獲得はわくわくするけれど、文学すること自体に楽しさを見出したことはない。
ついでに読書経験も、中2~高3まで笑っちゃうくらい何も読まなかったので、自分がなぜ文学を専攻しているのかよくわからない。文学以外の選択肢がないからかもしれない。

人の陰口を聞いた。言われるのも道理だと思った。それでも怖いと思った。誰かを悪く言うことそのものが怖いし、私も言われているかもしれないと思ったらもっと怖かった。

感覚の共有が苦手である。
私は私の感じたことを的確に言葉にできない。
論理的にというよりも感情面で。
私には出来ません嫌ですやめてください、が言えない。
感情で生きることを許せていないから、自分の否定的な感情に出会うとパニックになる。

同時に相手の言っていることも理解できない。
相手の提示した問題点が私にとってはどうでもよかったりする。
大抵相手がフォーカスを当てているプラスの感情が私には理解できていないから。

人と感覚を擦り合わせて生きていくのが、しんどい。
結局私は両親、その代わりとしての他者に承認されるかされないかという基準でしか生きられていない。
私と両親だけの世界に他人は存在しない。
そのまわりの風景も、音も、味も、匂いも、感覚も、ない。

私が承認される手段として頑張ってきたものだけじゃ足りない、それではアンバランスだと両親に言われた。
それを埋めるために今色々なことに手を出しているんだけど収穫はなく、ただひたすら、しんどい。
けれどそれを切ってしまうと、両親が「こうしたら?」と言ったものと私がズレてしまう。

楽しむことだったり、人に頼ることだったり、両親に認めてもらうためにやっていることがあまりに苦痛で、やめてしまいたい。やればやるほど、目指しているものから離れて義務的になってくる。
けれどそれをやめてしまったら、欲しいものは永遠に手に入らない。

そもそも、どうせもう私の望むものは手に入らないのだ。
けれどそれを認めてしまったら私の生きる意味はなくなってしまう。
どうすればいいのか、わからない。

とりあえず承認とか求めずに機械的に生きていくしかない。
プラスの感情はあったら邪魔。
マイナスの感情は汚いから、自分の中にあってはいけない。

私は、自分に向けられる自他の感情について、何も感じずに生きられるようにならなくてはならない。

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