写真_2017-10-09_20_03_30

人の働き方を笑うな、と酔いどれの夜に考える。

できないことを「私はがんばっているのに」と言ってしまうのはよくないとは思う。って、ライターの仕事を始めて数年が経ったころすごく実感するようになった。
ライター、特にフリーランスは想像しているよりもずっと辛い。
がんばっても、結果が出なければ意味がない。
だからこそ、できるだけ「がんばったけどダメでした」とは言いたくない。がんばったことを免罪符にしたくない。
ただ、その努力してきた過程を否定することは誰にもできないんじゃないだろうか。

職業差別、というのがある。
私の家は、祖母がその傾向が強くて、同級生の親の仕事を聞いては「〇○さんちは××の仕事をしているから遊んじゃダメ」などと私に言っていた。
いま思い返すとなんとも愚かなことだろう、とため息が出る。
実際、今の私はたまにバカにされることがある。
「色恋の話ばかり書いて何になるっていうの」
「所詮、恋の話なんて消耗品」
恋の話なんて消耗品、って言われたときには「なんだかカッコイイですね!」って笑っちゃったんだけど、まあそこそこ嗤われる。
少し前までは気に病んだりもしたんだけれど、最近ではこっちは好きでやっているんだから放っておいてくれ、と思うようになっている。

恋スルココロ、を描くのは悪いことじゃないって思っている。
人が他人を自由に好きになれることは素晴らしいことだと思うし、好きだという気持ちは誰にでも宿るものだ。
それを描けるって素晴らしいことじゃないか。
現代の日本で、人が子を作る手前の営み。
(いや、営みの使い方を間違えているかも)

でも、そんな営みを描くライターは能無しだ、なんて言われることがある。低俗だと嗤われる。
嗤われた本人は、「はい、低俗とは……?」ってポカン顔だ。
世界には、生活には大切なことがたくさんある。
その中で、恋を描くのは必要ないんだろうか。
描くときに、ひとつひとつのセリフに想いを込めている。
それが0.1秒の話だとしても、彼、彼女が発するセリフに魂を宿らせようとしているんだ。

今まで、「ライターなんて、日本語が書ければ誰でもなれるじゃん」って何度も言われてきた。
確かにそうかもしれない。文章が綴れば、誰だってなろうと思えばライターになれるかもしれない。
でも、なれたところで、続けるのは本人の努力次第だ。
そして、続けるために努力を重ねて歩んできた道は誇っていいものだし、第三者が否定していいものではない。
これこれこういうことを書いているライターはダメ、こういう働き方をしているライターはダメ、って決めつけるのがナンセンス。
他人の庭荒らしているうちに自分のセンスも積み上げてきたものも壊していってる。

なりたい自分があって、進みたい道がある。
そんな人たちにヤジ飛ばしているの、めちゃめちゃダサイな、なんて。

酔いながら、最近投げかけられた言葉を振り返る夜。



ありがとうございます。 本と旅費として活用させていただきます! 旅にでかけて次の作品の素材に☆☆