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みんな違って、みんなどうでもいい。それでもあなたは大切な人だよ。

朝起きて、さてジムでも行くかとスマホをいじった時に、Twitterから流れてきたこのnote。

この中の一文にすごく心惹かれました。

みんな違ってみんなどうでもいい

「みんな違って、みんないい」っていうのは、ほんとその通りだと思うのだけれど、私の中で違和感があったんですよね。

いいっつーことは、Goodってことだよね。失礼極まりないあの人の言動も、人を試して「ほら、結局あんたはそういう人だったんだ」とのたまうのも、うんうんそういう考えもあるよねと受け入れるのか?え、そんなん嫌なんですけど。って思ってわけです。

さあ、ちょっと整理しよう。

違うことは悪ではない。それは100%OK。

だが、違うことを良きこととして受け止められるか。それは時と人と程度による。

「うんうん、いいね( ´ ▽ ` )」って思う時もあるし
「あー、そうっすね( ´Д`)」って思う時もあるし
「いや、まじっすか_:(´ཀ`」 ∠):」って思う時もある

自分とは相容れない上に、許容もしがたい時、私の中の男子高校生が叫びます。「まじかーーーえええーーーまじかーー。え、それって俺受け入れなきゃダメっすか?えー、まじっすか。嫌なんですけど。え?だめ??嘘おおおお」ってな感じ。

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【まじだるいっすわ】

私の心の中の男子高校生が叫んでも、私はいい歳をした社会人の女である。しかも福祉の仕事なんてしてるわけだから、あたら人を傷つけるような発言はしてはいけない。と自分に謎の縛りをかけて、グギギギギとした笑顔で「そうですか、そういう考えもありますよね」とにっこりとする。

まー、そういう時に限って「認めたってことは、私のこの気持ちわかるよね?」とばかりに詰め寄ってこられたりする。頼む、まじ勘弁してくれ。

とまあこんなふうに、私はみんな違ってみんないいっていう言葉に振り回されているのだが、なぜか世間様は平気そうだ。キラキラにこにこしながら「違うって、ありだよね」とお言いになる。なに、みんな菩薩なの。

世の人っつーのは寛容だなぁと思いつつ、自分の不寛容をこっそり王蟲の子供を隠すナウシカのように隠しておりました。きちゃダメーーー。頼むから来ないでくれ。

とまあ、そんなことを思っていた時のこのnoteだったので、救われた気になりました。(再掲)

だから自分は他人の失敗に寛容だし,あまり他人に興味がない.みんな違ってみんなどうでもいい,そんな世界になって欲しいと願っている.

人に寛容になるためには、ある程度のどうでもよさって必要。

だから家族は寛容になるのが難しい。ただでさえ家族はうっかり距離の近い人間関係なのに、育児だとか介護なんてのは、世話をするという関係性が更に家族を近づけてしまう。そうして息苦しくなっていくのだね。

じゃあ、人はどこまでも無関係でいいのかと言ったらそういうわけではなくて、そのヒントもnoteの中で落合さんは言ってくれてる。

それでもあなたは大切だ

どうでもいいからといって、大切に思ってないわけじゃないんだよ。大切に思うということと、OKを出すことは違うんだよ。それはとてもしっくりくる解釈でした。

みんな違って、みんないいの「いい」はGoodではなくSureでいいんだよね。私は「いい(良い)」って言葉に引きずられて、Goodだと思っていました。日本語難しい。

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朝からいいものを見た。

みんな違って、みんなどうでもいい。それでもあなたは大切な人だよ。


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