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能とフィギュアスケート・技術と表現について思うこと

 フィギュアスケートの羽生結弦選手の、同じ演目を繰り返して極めていく事に関する発言をとらえての某通信社の記事を読みました。
「技術的に難しいものを入れていくことで、表現は制限されてしまう。そういう意味ではスポーツなので、バレエなども含めた舞台芸術の表現力、完成度や芸術性、それが訴えるものにはかなわない。そこでは初めから勝負にならない(2020年2月20日配信記事より)」という「あるベテランの国際ジャッジの発言」として引用されている言葉に私は少し疑問を感じました。

 ショパンのピアノ曲などは誰でも弾きこなせるものではない超絶技巧が必要なところが魅力の一つではないでしょうか。それをこなしたその先に顕れるものが人を感動させるのです。能にも技術的、肉体的にかなり厳しい表現があります。たとえば「平臥(へいが)」。垂直にジャンプして空中で脚を組み、あぐらをかいたような形そのままで着地します。最近行われているかどうかわかりませんが、わたしは宝生流の「船橋」で見たことがあります。愛し合う男女が仲を裂かれ、だまされて川に転落して溺死、妄執の地獄に落ちたことを表す場面の表現です。シテは直面(ひためん)、つまり面をかけない素顔です。重い装束をまとい、涼しい顔をして姿勢よく背筋を伸ばし、はた目には力むことなくリニアのように浮いて、吸い込まれるように着地するのです。上手く撮影すれば仙人の空中浮遊のような場面が撮れるでしょう。高さを出さないときれいに見えませんが、下は固い檜の板でできた舞台ですからランディングはおそらくかなり痛いし怪我のリスクが付きまとう危険な技です。能「船橋」の見せ場であり、同時にこの曲目がめったに演じられないことの理由であるかもしれません。オリンピック級スケーターの4回転ジャンプに匹敵する技だというつもりはありませんが、謡いながら、舞いながら、舞台の流れの中でよどみなく実施するのは難しいと思います。能楽師ならだれでもできるというものでもないかもしれません。ほかにも観音倒れ(体をまっすぐにのばしたまま、仏像が後ろに倒れるように倒れる)など能には結構難しくリスキーな表現があります。

 何が言いたいかというと、人を感動させる、心に食い込むような表現には小綺麗さや華やかさ、なめらかさ、安定感などだけでなく高い技術、そして勇気がいるということです。こうした表現のできる技を持った立役者、花形が出て、時に競い合うことで伝統芸能は数百年の命脈を保ち、残ってきたのです。きれいな衣装をつけて型どおりにひらひらしているのが表現だ、とおっしゃっているわけではないと思いますが「技術的に難しいものを入れていくことで、表現は制限されてしまう」というのは当たっていないと思います。技術の進化は表現の可能性を広げるものです。ただ、ぎりぎりやっと出来る、という技ではストレスが大きすぎて見る人に何かを伝えるまでに至らず、全体のバランスも欠いてしまうからマイナスになるということではないでしょうか。
 伝統芸能の多くは素朴で庶民的な楽しみから始まってたくさんの演じ手やごひいきの力で長い時間をかけて洗練されてきたのだと思います。バレエダンサーも最初から「芸術家」だったわけではないと聞きます。スポーツを観戦するという楽しみ方が日本に入ってきたのは比較的近年のことです。スポーツ、芸能という概念自体、それほど確固たるものではないかもしれないという気がします。すべては刻々と変化しているのです。フィギュアスケートだってオリンピック競技になってからも随分変化がありましたし、プルシェンコ選手、羽生選手のような積極的に技術や表現を高めようとする方々によって劇的に進化しています。その進化にジャッジや様々なシステムが技術的に、そして意識の上でも追い付いていないという気がします。

「技術的に難しいものを入れていくことで、表現は制限されてしまう。そういう意味ではスポーツなので、バレエなども含めた舞台芸術の表現力、完成度や芸術性、それが訴えるものにはかなわない。そこでは初めから勝負にならない」という発言は本当にそういわれたのかわかりませんし、発言を書き留めた方の主観が入っているかもしれません。ただ、ジャッジの方にはふさわしい修練を心がけて、心を開いて目の前で起きていることをきちんと見ていただけることを願うばかりです。


 羽生選手は競技としてフィギュアスケートを極める道から、さらに次のまだ誰も見たことがないステージに進まれる方かもしれません。これまでにないスタイル、表現、コミュニケーションを発信されているように感じられます。これからどのように進化し、私たちの世界を変えてくれるのか、本当に楽しみです。

2020/02/23

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