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分子の記憶に囁くもの        羽生結弦のReal Face

2022年ファンタジー・オン・アイス幕張、紙コップ一杯の水とともに羽生結弦がまた殻をひとつ脱ぎ捨て、違う世界を見せた。オープニングからすでにその成長、というより変身に近い進化が見て取れた。エキシビジョン後のワチャワチャだろうが群舞だろうが、いつだって彼のいるところがセンターになるのはお決まりだが、「午後のパレード」に乗った鋭く華やかなダンスは「主役」とは何か、スターの輝きがどれほどまばゆいかを見せつけた。スタイルも顔つきも一段と引き締まり、もともと長い脚はさらに長く、いわゆる二次元体型がますます際立つのは不思議なほど。彼は衣装の着方(脱ぎ方も!)、体の動かし方をほんとうに良く知っている。
 
 オオトリに2011-2012シーズンの「ロミオとジュリエット」を彷彿とさせる衣装で登場した羽生の曲は「Real Face」。カッコよすぎるハイキック、目を奪う複雑なステップ、そして、一掬の水を被り、コップを投げ捨てて未知なる世界への挑戦を宣言する。ざらついて青臭く尖った曲を微塵のてらいもなく演ずるふてぶてしいほどの潔さ。世には「紙コップ落ち」なる新規ファンが爆誕したそうだ。氷に口づけして数知れないハートをメルトダウンさせた「春よ来い」といい、手袋を叩きつけて絶叫を浴びた「マスカレイド」といい、真正面から観客を翻弄するテクニシャンぶりは大変なものだ。しかし、わずかばかりの水を浴びるしぐさにどうしてこれほど惹きつけられてしまうのだろうか。
 
 遥か昔、ティーンエイジャーの頃に見た蜷川幸雄演出の「近松心中物語」に、たいそう印象的な水の場面があったことを思い出す。飛脚屋の入り婿・忠兵衛と遊女・梅川が許されない恋の果てに死に場所を探す道行の場。降りしきる雪の中、二人は水辺へと差し掛かる。舞台と観客席を隔てるオーケストラボックスは満々と水が張られ、池へと姿を変えていた。平幹次郎演ずる忠兵衛はそのほとりで太地喜和子の梅川を紅いしごきで絞め殺す。崩れ落ち、息絶えた梅川にほおずりし、撫でまわし、足に口づけをする忠兵衛。愛しい梅川を抱き上げ、狂おしく雪原をさまよい、深い淵へと踏み込んでゆく。水面を蹴立て、梅川の亡骸を揺すり上げ、かき抱き、咆哮するその姿。前列の観客たちはイルカショーのアリーナ並みに水しぶきを浴び、びしょ濡れになっていた。義理や肉親の情や見栄に絡めとられながら、愛しい女と一つになることを切望し、追い求め、追い込まれ、煮えたぎり、昇華する魂が発する熱。私の席には水しぶきこそ届かなかったが、その強烈な感情の放射を正面から喰らって焼きはらわれてしまった。常識を超えた量の紙吹雪や大掛かりな舞台装置、怖いもの知らずの演出、名優たち、凝った衣装、ユニークな楽曲などが惜しげなくつぎ込まれた忘れがたい舞台であるが、中でもこの「水」の果たした役割は大きく、追い詰められ、抗いきれずに飲み込まれていく者たちの終焉が突き刺さるようだった。
 
 能においても水は死と別れ、再生、永遠を示唆するものとして現れる。親子の別れと再会を描く「桜川」「隅田川」においてそのクライマックスは川のほとりだ。隅田川の母は船で対岸に渡って梅若丸の墓にたどり着き、生きて再会を果たす桜川の母子は同じ岸辺で巡り合う。一騎当千の勇者・兼平かねひらの亡霊は湖上を漂い、源三位頼政げんざんみよりまさに成敗された妖物・ぬえは小舟を操り川辺の小屋に漕ぎ寄せる。「海人あま」のヒロインは水底深い龍王の城から宝玉をとり返し、鼓の天才・天鼓てんこは皇帝に大切な鼓をわたすことを拒んで呂水ろすいに沈み、酒と富貴の精霊・猩々しょうじょうは月下の潯陽江じんようこうで金波の上を舞い遊ぶ。「右近うこん」の女神は鏡のような池の上を舞いながら昇天し、「羽衣」の天女は岸辺の松に衣を掛け、龍田姫は氷りついた川を乱すことを咎め、融大臣とおるのおとどの亡霊は河原院かわらのいんの廃墟に潮を汲み、「枕慈童まくらじどう」の美少年は菊花の霊力が溶けた水を口にして永遠の命を得る。他にもまだまだあるだろう。
 水は異世界と現世の境界であり、生命誕生の源であり、終焉を飲み込むものでもある。懐かしく、怖ろしく、神々しく、すべてをリセットする水。その記憶は分子レベルで生命に刻みこまれている。
 
 羽生が浴びた紙コップの水は、額から鼻梁を、頬をつたって散るそのわずかな間に爆発的な化学変化を引き起こした。転がり、弾けながら命あるもののように煌めき、飛び散って羽生の表情を飾り、滴り落ちて氷に同化し、蹴られ、砕けて消滅する。それだけなのに多くの観客はそこに曰く言い難い魅力と意味を見出してしまう。羽生のコップから散った水は循環する永遠の片鱗かけらなのだ。
 17歳の冬、怒りと情熱を爆発させていたロミオの頃も、美しく調教されていながら競技者の枠には収まり切れないパフォーマーだった羽生。27歳の夏、彼は自らの野生さえ自在に操る途方もない表現者へと進化した。水が秘める魔力を増幅させ、細胞の奥底に潜んだ古い記憶を揺さぶり、人をリアルな妄想へと駆り立てる羽生結弦。そのカリスマにはますます磨きがかかっていくのだろう。

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