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一騎当千の羽生結弦 パラダイムシフトを示唆する者たち

 Stars on Ice 2021の横浜楽日を横浜アリーナで拝見した。オープニングで音響にミスがあったようで、暗闇の中で煌めく衣装に身を包んでスタート位置につかれていたお方が、吹っ飛んで幕に駆け込む気配、そして怪鳥の叫び? もかくやとばかりの鬼気迫る仕切り直し・気合注入の声を聞くという幸運にあずかった。
 再び固唾をのんで静まり返った会場。ショートサイドに張られた幕の中からの強い逆光を浴びて浮かび上がった羽生の後ろ姿。気怠さと華やかさ、懐かしさが混然一体となって癖になりそうな「Blinding Lights」のイントロにのり、ターンして滑り出す。最初の一蹴りの推力なのか、その後の腹筋+体重移動なのか、一音ごとにロックなオスっぽさをほとばしらせつつ、絶妙なリズムと速度でまっさらの氷を切り裂いていく。そのスケーティングは鮮烈かつ優美であり、荘厳ささえ感じさせて目を奪う。中央でビシッと見栄を切り、氷上とは信じられないほどの巧みなステップが続く。足元の決まり方、体のキレに隙がない。X軸方向の動きをY軸に影響させず、進む、退く、ステップを踏む下半身の激しい動きから独立したように上半身を躍動させている。I’ve been on my own for long enoughのあたりで左右に激しいステップを踏んでも、その揺れが上体に影響していない。頭の位置が揺るがないから素晴らしくダイナミックでありながら見事にバランスがとれ、ただの一人の視線も逸らさせない吸引力で空間を制圧してゆく。これは羽生の卓越したスケーティング技術があってこそだろう。バラード第一番の始まりから左方向へスーッと伸びる滑りは期を重ねるごとに距離が伸び、羽生の技術と美意識の変遷を感じさせたし、「Let Me Entertain You」のイントロで、ロングサイドジャッジ側を両手で照準し目線で焼き払うタメの効いた滑りも、ただの蹴りでは生じえない不可思議な推進力に支えられているように見えた。その並外れたスケーティングにダイナミックなダンスが加わってこれまでにない強烈な印象を生み出す。歓声を禁じられた観客たちの喰い気味なクラッピングと熱視線で氷も焦げそうだ。「Let Me Entertain You」もすごかったが、羽生は一時も同じ場所にとどまるつもりはないらしい。この数カ月で進化著しい筋肉に鎧われ、陰りと華麗さが混然として匂い立つ姿は修羅物の主人公のようだ。


 エネルギッシュなステップはヒーローにぴったりのイメージだからだろうか、武将をシテとする能の修羅物でもよく「拍子」が踏まれる。舞の中で謡に合わせて舞台を踏み鳴らすことを能では拍子と呼ぶ。拍子は様々なテーマの能でそれぞれの意味を持たせて踏まれるが、修羅物では戦いのクライマックスなど、ここぞいう場面で複雑なリズムと強弱をつけて華やかに踏み鳴らされる。昔の名人上手は「舞台を観なくても拍子を聞けばシテの巧拙が解る」といった程のものだ。能楽堂の舞台の床下には拍子の反響をよくするために大甕が据えられているという。今はどうだかわからないが、光太郎が子方の頃、建て替え前の古い舞台の床下を探検した時には本当に大きな甕が埋められているのを見たそうだ。
 凛々しく哀しい修羅物の中で、とりわけアクションとブロマンス(※)ともいうべき情の細やかさが印象的な能に「兼平」がある。シテは今井四郎兼平(いまいのしろうかねひら)。木曽義仲に仕え、「一騎当千」という言葉のもととなったとも云われる強者(つわもの)だ。義仲とは乳兄弟で、生涯の盟友であった。「兼平」の見せ場は、血よりも強い絆で結ばれたこの主従二人の最後を、兼平の亡霊が旅の僧に語る場面だ。一時は「朝日将軍」として君臨した義仲だが、後白河法皇の不興を買い、頼朝との政争に敗れて京を追われる。頼朝の派遣した鎌倉軍に敗北した義仲軍は、兼平とその妹・義仲の恋人でもある巴御前を含めてわずか七騎となり近江の粟津へと落ちていく。味方は次々と斃され、巴御前を東国へと逃れさせた後、残るは義仲と兼平のただ二人となった。援軍は期待できず追手は迫る。兼平は義仲を敵の手にかけさせまいと一人踏みとどまって盾となろうとするが、気づいた義仲は馬を返して戻ってきてしまう。原典となる平家物語では「これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり(ここまで逃げてきたのは兼平と一緒に死にたかったからだ)」と義仲に胸中を語らせている。兼平は「木曽殿が雑兵に打たれては末代までの恥となろうからせめてこの場を逃れて自害されよ」と云い諭し、「今井もやがて参らん」と強引に馬の向きを変えさせ、義仲を彼方の松原へと向かわせる。この時、兼平は33歳、義仲は31歳。主従とはいえ幼少期からともに育ち、青年期の甘い痛みも、栄華も、苦い失墜も分かち合った盟友、ソウルメイトであった。「やがて参らん」という兼平の言葉は「あの世までも供をする」と理解すべきだろうが、それは表向きで、自らを犠牲にして義仲の退路を守り、生き延びさせようしたと考えるのはうがち過ぎだろうか。しかし、松原を目指した義仲は薄氷が張ったぬかるみに疲れた馬の足を取られ、底なし沼のような泥にはまり込んで身動きがとれなくなってしまう。もはやこれまで、その場で自害しようと剣に手をかける義仲だが、死を覚悟しても脳裏をよぎるのは兼平のこと。最後に一目と兼平を振り返ったその時、流矢が内兜を射貫き、義仲は絶命した。「木曽殿を打ち取ったり」という勝鬨が兼平の耳にも届く。一縷の望みが潰えたことを知った兼平は、「木曽殿の御内、今井の四郎兼平」と高らかに名乗りを上げて死地へと突入してゆく。能ではこの名乗りの場面で9拍、複雑なリズムと強弱で拍子が踏まれ、続いて敵を縦横無尽に蹴散らす戦闘シーンでさらに4拍、6拍とたたみかけるように踏み鳴らされる。ほとんどの音のない静かな一拍から轟き渡る大音響まで、巧みなリズムと強弱で踏み分けられる拍子は「鬨つくり添う声々に、修羅の巷は騒がしや」と謡われた戦場の緊迫感を否応なく盛り上げる。文字通り一騎当千、ワンマンアーミーな戦いぶりで粟津の浜まで敵を押し返した兼平は、その汀を死地と定め、「自害の手本にせよ」と叫んで剣の切っ先を咥えて馬から逆落としに飛び降り、自ら刃に貫かれて凄まじい最期を遂げる。

 この文章のために動画を探し、光太郎が演じた仕舞「兼平」を見つけだした。仕舞なので装束は着けず裃姿。細かい動きはこの方がよく見える。最後の兼平自害の場面は平臥、すなわち跳びながら空中で結跏趺坐するように足を組み、そのままの形で着地するという大技で修羅道へと堕ちてゆく死を表している。空中で足を組むためにはジャンプしなければならないが、左足、次いで右足を上げて空中で胡坐を組む動きをストップモーションで追ってもほぼ頭、上半身の高さ・位置は一定していて動かない。両足で立った腰の高さを保ちつつ左足を浮かせて胡坐の形に曲げ、次の呼吸で水平のバランスを維持しながら跳躍し、右足を上げて組む。引力を相殺するように制御した跳躍によって空中での瞬間的な静止・浮遊を作り出した後、形を保ったまま吸い込まれるように堕ちる。兼平の悲憤と執着、絶望、武士としての「最高の死」を敵というギャラリーに見せつける一瞬の悦楽、そして後に続く永劫の地獄を示唆する場面だ。空中浮遊と落下という非現実的なアクションが兼平の勇猛さと凄惨な運命を観る者の心に強く刻み付ける。600年前に創作された能であっても、現代のパフォーマンスであっても、演じ手の確かな体技とパッションに支えられてることに変わりはない。

 話が長くて恐縮なのだけれど、なぜこんなに兼平にこだわるかといえば、萌えるから、と同じくらい彼が変革期において時代の美意識や価値観を体現し、あるいは決定づけたキャラクターだと思うからだ。彼は平安末期の人であり、武士の時代が本格化する節目でこの強烈にしてエモーショナルなエピソードの主人公となる。歌人でも権力者でも琵琶の名手でもなく、美青年だったいう話もない(妹の巴御前は容色優れ、長い黒髪がつややかな美女ということなので彼も美男だったと思いたいところですが)、他に何の逸話も持たない彼を、平家物語は主人義仲から「汝と一所で死なん」とまで愛される男として描き「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵にて候ふなり」という当時としては新しい武人の美学を語らせ、「木曽最後」の段のクライマックスにおける主役とした。そして世阿弥元清は彼の神がかりな戦闘能力と生死を超えた献身に鮮烈な演出で光を添えて能「兼平」を創作。パトロンであり、念兄であり、武士の統領である足利将軍義満に捧げた。近年はあまり取り上げられることがない兼平だが、これらの作品および派生する諸々からの影響力は強く、武士の時代を通して侍の理想となっていく。風雅の人としても知られる伊達政宗は細川家や前田家と争ってまで入手した貴重な伽羅の香木に「柴舟」と名づけ家宝としたが、その由来は能「兼平」で最初に兼平の霊が登場する際のシテ謡い、「世の業の憂きを身に積む柴舟や 焚かぬ先よりこがるらん」によるという。江戸初期、政宗が逝去した際に家臣から20名もの殉死者が出たというのも象徴的だ。

 羽生はフィギュアスケートを進化させ続けてきた。技術的なことだけでなく独特のアピール力で競技を超えて多くの人を惹きつけ、インスピレーションを振りまき、多方向に影響を与えている。新型コロナウイルスの蔓延や派生する社会の激変の中で、羽生の発信力、キャラクターと才能による影響力がますます強まっているように感じられる。ジャンプをモーションキャプチャし考察したという論文は今後あちこちで引用されていくだろう。試合だけでなくエキシビやアイスショーの写真、東日本大震災からの復興や医療従事者に向けたメッセージでスポーツ紙の一面を埋めつくすアスリートというのも稀有の存在だ。
 Stars on Ice 2021の開催期間を通して羽生の演技は進化し続け、海外のファンにもオープニング動画が大反響だと聞いた。世界選手権の「Let Me Entertain You」はドイツでランキングを急上昇しているらしいが、競技としてのフィギュアスケートにとどまらず、ショーとしての在りようも変えていくことだろう。Stars on Ice 2021は開演から終幕までクリエーター&エンターテイナー羽生結弦の心意気が他の出演者たちにも観客席にも作用し、素晴らしいショーとなった。羽生の演目が「Let’s go crazy」と聞き、生で見られれば思い残すことはないと思って出かけたが、ホワイトプリンス様も含めてたくましくも蠱惑的に成長し続ける姿を目の当たりにし、彼のこの先の進化・飛躍をぜひ目撃したいと欲が出てしまった。この魅力的な社会現象をリアルタイムで追えることにワクワクしている。

※ブロマンス(Bromance):
 broもしくはbrother(兄弟)とromance(ロマンス)の混合語。2人もしくはそれ以上の人数の男性同士の近しい関係のこと。恋愛関係とは異なるソウルメイト的なつながりを差し、イギリスのTVドラマ『SHERLOCK(シャーロック)』のシャーロックとジョンの関係が有名。近年はジョージ・クルーニーとブラットピットの関係などが例とされる。

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