島のお盆に感じる血統と自分の在り方

もし私が島に生まれていたら、と考えることがある。
私の家族は集まることも少ないし、親戚同士の繋がりも希薄だからだ。
お盆を過ぎて、より島の親戚のつながりや血統、みたいなことを感じることが多くなった。
もし、この島に生まれていたら、私に「ふるさと」と呼べる場所ができただろうか。

一方で「絶対に越えられない領域」「分かり合えない範囲」みたいな見えない隔たりや壁を感じるのだ。
小さい頃から一緒に育っていて、小学校の時のバカな思い出や、嫌いな先生の話、誰のことが好きで、どんなとき落ち込んでいて、みたいなことがほぼ説明なしで暮らせる、人と人の距離が濃密で近い、この島は、「外」と「内」を無自覚に分断している。

しかもそのことに「内」の人たちは気づかない。

「内」の価値観だけでは、突破できない、少子高齢化や福祉・教育・産業の問題。
濃密な関係こそがそういった問題を課題にすらすることができない、と「外」の者は感じるとて、「内」の人たちに伝える術を持っていない。
バックグラウンドの説明が必要な者とは、共通言語がそもそもないのだ。

だから、できることといえば、「自分のできることをできる範囲でやらせていただく」ということだけ。

融合や分かち合いなんてもっと先である。「内」はその血筋をより濃くし、どんどん内になっていくし、「外」はやはり外のコミュニティが広がっていくだけだ。しかし、これを絶望とは呼ばない。
そういう感じはしないのだ。
あと何年この島にいれば、「内」に呼ばれ、「内」として認識してもらえるか、なんて無意味な妄想だったとしても、ずっと平行線だったとしても、「外」の者にしかできない、「内」からの淡い期待みたいのを勝手に感じてしまうのだ。

”きっと私にしかできないことがある”

それは、ここにいなくてもずっと感じていたことではなかったか?

この恵まれた健康な身体と体力、明晰な頭脳を持ってして、何かできることはないか?といつも探してしまう。
外側に、探してしまう。

それは、この島の「内」が私にとって外側であるように、私以外の外側に対して、何かを探してしまう行為ととてもよく似ている。

実際は、「今ここに」「ある」「自分本来の中身」が今の現実だし、
そこから何を選択するか、も全て私自身の話なのだ。

外側の環境が決めさせるわけではない。
不本意だったとしても、それは自分の選択である。
だから、改めて自分の中身をよくみて、手にとってみる必要があるんだと思う。

起きてないことを想像しても仕方ないし、今起きていることは何か?から目を背けても、明日には何も繋がっていかないのだ。

さぁ、今の私には何が見えているだろう。

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