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"ニューノーマル"な世界よりも、あたらしくなった私で。

深夜にふいにツイートした文章が、思いの外、共感された。

コメントしてくださった方も何人かいらっしゃり、なかには「不特定多数の誰かに見られたかったのかも!ということに気づいた」とおっしゃってくださる方もいらしたが、おそらく私に限った話で言えば、全くそんなことはなかった。

なぜならば、そういうオシャレをして楽しい気持ちになるのは、昼休みでランチがおわった後に行くトイレとか、仕事からの帰り道にショウウィンドウでちらっと自分の姿を自分で見たときだったから。あるいはネイルも、パソコンをうちながらふと見つめる手元がキラキラと輝いていたのがたまらなく可愛くて幸せだったからである。そこには誰も、一緒に飲んでるイケメンも、オフィスのおしゃれな女性も、存在しなかった。

じゃあ何が失われたのかというと、きっと「衣装を着る舞台」が失われたのだと思う。

衣装にはいつも、それを着る舞台が必要なのだ。つまりどういうことかというと、私は休日の表参道に、上品だけどあまりにも可愛いワンピースを着て街を歩くのが楽しかった。相手がどんな女の子が好きだとか関係なく、男の子とのデートにふわふわのニットを着ることにときめいた。気合を入れて望むミーティングに、いかついリングをつけて向かうのがアガったのだった。

"ハレの日"に"ハレの衣装"。"公の場"に"オモテヅラな服"。"決戦の金曜日"に"勝負服"。

舞台に上がるためのアドレナリンが湧いてくる。それが、私にとって私のためのオシャレだったのだと思う。

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しかしやはり、家にいると、そういう、アドレナリンがぐぐっと高まってくる瞬間、というものは少ない。

ずっと、「舞台」は自宅。外に出たって、近所のスーパーか職場くらいにしか訪れないのだ。

ビデオ会議に顔を出すときはいつもそれなりに化粧をして、パジャマから着替えているけれど、家で「春だから春メイクしよう!」とは思わなかったし、派手な服を着ても自分が馬鹿らしく思えたし、ヒールを履くこともできなかった。

オンライン飲み会で久々に友人と会話した時、「一週間がものすごい速いんだよね。それで、今週何したか全く思い出せないんだよな。厳しい自粛期間は2ヶ月以上あったわけだけど、まるでそんな長い期間経っただなんて思えないよ」と話していた。

確かに、最後に電車に乗ったのは数ヶ月前だけど、この数ヶ月なにがあったっけ。平日と休日のコントラストでさえ曖昧な、同じような毎日を繰り返して、気づけば梅雨である。来年、この自粛期間を思い出しても、ぼんやりと部屋にいたことや、うっすらとした不安と緊張しか、思い出せない気がする。

お取り寄せしたり、花を買ってきたり、家にも自分の小さなお気に入りを呼び込んで、"ハレな一瞬"を作ろうとしているけれど、もっともっと暮らしの全体量は大きくて、油断すると余白だらけの日常に飲み込まれそうになった。

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ただ、だけど一方で、自分の考えや心情に関しては、変化が大きい日々だったように思う。

沢山本や映画やドラマを見て、刺激を受けたからかもしれない。時代の転換点において、当たり前だったビジネスが変化を余儀なくされ、隠されていた政治の不合理さに気づいてしまったからかもしれない。しかし、二ヶ月間何があったかは詳細には思い出せないけれど、確かに二ヶ月前とは大きく異なる自分に変化していると感じるのだ。

例えば、ソーシャルメディアで、社会の問題の話をするようになった。以前はなんとなく怖くて、できるだけそういう、いわゆる"議論の分かれる"”難しい話”は避けるようにしてたのだけれど、少しずつ発信できるようになった。誰かの主張と衝突しても、自分の意見を主張するようになった。それらはいずれも、自粛期間の間に、これまで後回しにしていた勉強ができて知識を得たこと、知識を得る間に、主張を恐れない人たちに励まされたこと、静かな毎日の中で、自分が大切にしたい考えに出会えたからだと思う。

勿論、良い変化ばかりではない。自粛期間は鬱っぽくなることが多くて、気が滅入って急に涙がこぼれてくる日もあった。けれど、とある小説の中に自分を見つけたり、大事だと思っていたものがそれほど価値がない事に気づいたり、普段と異なる暮らしに自分を置いてみて、自分の中にある変わるものと変わらないものを照らし合わせて、多くの発見に出会える日々だった。

 思えば、ファッションで気持を持ち上げながら、くるくると気分を変えなければならなかった日々は、何かを誤魔化していたのかもしれない。日常に追い立てられるふりをして、自分の内面や思考に栄養を与えることを疎かにしていたかもしれない。

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少しずつ、日常が戻りつつある。

朝起きて、急いで化粧して着替えて電車に乗って、汗をかきながらオフィスに入って。忘れ物をしたことに気づいて誰かに借りたりして。会議から会議へ走って向かったりして。「ごめん、飲み会5分遅れる」とかLINEして。終電に乗るために走って。帰宅してお風呂がめんどくさくなったりして。SNSしてたら深夜1時になったりしてて。

そんな忙しない日々が、また戻ってくるのだろうか。

戻れる気力があるだろうか、という不安はあるけれど、一方で、ここは「内面がアップデートされた自分で外の世界を楽しむのが待ちきれない」と強気でいたい気持ちもある。

誰かに会える嬉しさを知った自分で。外に出られない日は、本を読み、映画を見て、新たな知見に出会える楽しさを知った自分で。料理を作る小さな達成感が自分を励ましてくれると知った自分で。家族との時間の尊さを知った自分で。暮らしが変わっても、変わらないものを見つけた自分で。

「舞台」に合わせて気分を仕立てる私は、きっとより一層、自分に素直に振る舞えるに違いない。さらには、舞台を降りた後のすっぴんもパジャマも楽しめるだろう。

"ニューノーマル"な外の世界で過ごす、もっと自分らしく過ごせる日常を楽しもう。この、辛抱強く本当の自分と向き合った毎日は、少しずつ加速していく日常に溺れそうになっても譲れない、"私らしさ"を教えてくれたのである。




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