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旅情奪回 第31回:確信犯の前に。

「正常」は思うほど「異常」と大差がない。いつもそう思っていても、それが欺瞞でないか、ときどき確かめたくなる。そういう証拠や確信というのは、まさに市井の路傍に転がっている。

それで、珍しく土曜日に早起きなどして、ゆっくりと始まる朝の街を散歩にでかけた。コースは決めていなかったが、結果として数年前まで住んでいたあたりまで歩き、大きく回って戻ってくるような、あまり冒険的ではないものとなった。

朝のお馴染みの景色がちらほらと視界に入る。高齢の女性が、家の前を掃いたり、道端に無造作に捨てられたゴミをまとめたり、植木に水をやる。そういう光景だ。誰に言われたのでも、頼まれたのでもないだろう。しかし、この人たちは昨日も明日も、命ある限りこれを繰り返す。そういうオートマティックな日常に健康な「正常」が見えたりする。この穏やかな平常運転を見たかったのだ。

朝日が眩しい。眼が弱いのは父譲りで、この時期はサングラスがないと視界が白けて困る。慌てて出かけたもので、ついサングラスを忘れてきてしまった。こうして冷たい風に頬を打たれながら頭上の日光に晒されていると、少しだけ卑屈な気持ちになる。太陽が、あまりにも無条件なので、それを受け取るのに気後れするのだ。

そうやって、切り取られた雲のない空が、コラージュのように私を囲みながら、景色はどんどん流れていく。この商店街の休日は、人より鴉のほうが早起きだ。

やがて、橋の欄干の鐵のにおい。蕎麦屋の出汁の薫り。焼き立てのパンの匂い。こんな時間から眼科に並ぶ人たち。犬の散歩と人の散歩。追い抜いたのに追い越していく人。それぞれに理由があるだろうが、私がそれを知ることはない。私の散歩の理由も、誰も知らない。なにもわからない者同士が交錯していく。

昔よく参った神社にも立ち寄ってみる。まだ誰もいないと思ったら、青いダウンを着た若い男性が左手からひょいと現れて、先に階段を登っていった。とても長い時間手を合わせて降りてきて、入れ違いに私が階段を上がる。こんなに高かったとは。なにかの先端に立っているような、頭がくらくらするような落ち着かない気持ちのまま神と向き合う。ようやく今は、この聖域には私以外誰もいない。

もと来た道をまた早足で歩く。往路より人が多い。よちよち歩く幼児の後ろ姿に、飛ぶように過ぎ去った15年余りを思い浮かべる。また歩く。自転車の後部座席にまだ年端も行かぬ子供が青いヘルメットを被って座っている。何をしたのか知らないが、目が醒めるほどの速さと、無慈悲な強さで母親がその子の頭を叩く。暴力の匂いがする。「異常だ。正常の中の異常だ」。

息が上がる。歩いても歩いても、目的地が見えないようなこの気持ちは、多分もっと、なにかこの出来すぎた光景の薄板一枚向こうにある深淵を覗いてみたいという、少し意地の悪い怖いもの見たさと野次馬根性がそうさせるのだ。
「正常」と「異常」がちゃんと混ざり合って、汽水域のような日常が今日も続いているのだという、紛うことない実感を手にして帰りたい。

もうあの角を曲がって橋を渡れば家が近い。引き返して、まだ人の気配の残る小路に分け入って気の済むまで遠回りしようかと迷ったが、視線の先にバスが横切って、人の小さな塊が運ばれているのが目に入ると、「正常」と「異常」が共犯的に「正常」を前景にする時間がきてしまうと気づいて寄り道はやめた。そういう時間には、もう得るものがなにもない。

家のドアを閉めると、この散歩はなんだったのだろうという、仕方のない疑問が湧いてきた。何をしにいったのか。なにか浮かされたようで、どうでもよくなって、すぐにコーヒーを火にかけた。
これで良しとしよう。多分、「正常」と「異常」の間には、明確な境目などなかったのだ、ということだけは確認できたのだと思うことにする。(了)

Photo by SplitShire,Pixabay

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