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私にしては珍しいことだが、用事があって朝の散歩をした。まだ暑いとはいえ、もうこの時期だ。よく見れば、道の端にカナブンが何匹も死んでいて、金属色の緑の背中が朝の日差しを撥ね返してピカピカと光っている。
近づいて見るほどのことはしないが、命を終えたカナブンは、背中とは対象的な、水分は感じないがやけに有機的な肚の前で、こちらは針金のようなか細い手足を少し丸めて硬直している。
命あったときの飛翔の痕跡だろうか、今にも翅がもげそうなもの、くぼみや孔の空いたもの、薄羽のはみ出した死骸など、一様でいてそれらの最期は実に様々だ。

夏になれば、私も昔はよく虫採りをしたものだ。正直に言えばあまり好きではなかったし、はやく「卒業」してしまいたかったが、弟は本当に虫採りが好きで、小学生も高学年になると、私はほぼ付き添い役でしかなかった。
実際、私は弟のようにはしゃぐこともできなかったし、彼のように上手に虫を捕えることもできなかった。
大体が、貧しい収穫に大量の虫刺されで、それについて文句を言いながら家路につくのが定番だった。

虫採りの華といえば、何を措いてもカブトムシとクワガタムシというのは古今変わらないのではないだろうか。今よりも情報が少なかった時代でも、その前の時代よりは自然が少なくなっていたのだから、虫採りにおいても私たちの世代というのは、狭き門をくぐり限られた席を取り合う「戦争」にさらされていたわけで、真に野生のカブトムシやクワガタムシが採れる年というのは実に稀なことだったのだ。

教養のない虫好きだった私たちは、蝶などには目もくれず、ただ格好いい虫を求めたものだ。カナブンは、ゾウムシや小ぶりなカミキリムシとともに、カブトムシやクワガタムシに比べれば大分よく採れる、レア度でいうなら★★★(珍しくもないが、手応えとして標準)という感じであった。それでも、色気のない他の虫に比べれば、メタリックな背中と甲虫というブランドには、代え難い魅力があったのだから、数匹採れれば虫カゴに入れて連れ帰ったものだ。

連れ帰ったもの、ではあるがそのあとの始末が悪い。図鑑や耳情報で仕入れた小粒な情報を目一杯ふくらませて、餌や水をやり、少しでも「飼育」を試みるのだが、弟のような純粋な気持ちに私はなれない。いつしか、そういうワクワクする心を失ってしまったのだろう。
何より、夜中になると、小さなカゴの中でカナブンが飛び回り、かっかっ、と硬質な音を立てる。あの音が断続的に、ドアの向こうのリビングから聞こえてくるのが息苦しい。
夜更かしした夏休みなど、弟は「やっぱカナブンは夜行性だからよく飛ぶな」と興奮していた(しかも、カナブンは夜行性ではなく昼行性である)が、明かりの消えた寝室で、隣の部屋から聞こえるあの音が嫌で嫌でしかたがなかった。

確かに、少年からすればこれは成果であり勲章だ。できることなら虫カゴで上手に育ててあげたいという気持ちもわかる一方で、逃げたがっている虫たちの本能を尊重したくもある。その狭間で、優柔不断な私はいつも決断を下せず、気がつけば朝、カゴの中で裏返ったカナブンたちを目撃することになる。そんなことの繰り返しが、きっと私をどんどん虫採りが楽しい冒険の夏から遠ざけていったのだ。

もう虫たちと重なり合う時間というのはあまりなくなってしまったが、こうして不意に、白昼堂々とカナブンの死骸を目にしたりすると、あの夜天井に響いた衝突音はいったいなんの音だったのかと考えることがある。外へ外へと向かう拡大志向のエネルギーか、閉じ込めて自由を奪ったことへの慟哭か。それとも文字通り行き場のない怒り、だったのだろうか。そんなことを思い浮かべているうちに我が家に到着してしまい、私の希少な朝の散歩は呆気なく終わってしまった。(了)

Photo by pabloedine,Pixabay

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