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恩師

noteのお題に「忘れられない先生」というのがあります。忘れられない先生を思い浮かべると、「ちょっと…」のような先生しか思い浮かびません。事業所の利用者が学校時代に大好きだった先生の写真を見せてくれました。私は「恩師」というものにあこがれてきました。今は、早稲田大学エクステンションセンターで出会った先生が私の恩師です。

恩師を自慢する利用者

私は障がいのある人が利用する社会福祉法人を経営しています。法人の本部が事業所のひとつに併設しています。また、私の法人では事務室への出入りが自由です。そのため、空き時間になると利用者が大勢事務室にやって来ます。今日、ある女性の利用者が写真の束を持って私に話しかけてくれました。

彼女が持っていたのは、養護学校時代の写真でした。その写真のほとんどに同じ先生が写っていました。その先生のことを「〇〇先生」と呼んでいました。残念ながら言葉がはっきりせず、名前を聞き取ることができませんでした。それでも、一枚一枚「〇〇先生」と名前を呼び、「スキ」と嬉しそうに教えてくれました。話を聞いていてうらやましくなりました。

私には、良い思い出の先生がいません。すこし変わった先生、困った先生しか思い出すことができません。

小学校の先生

小学校一年生、二年生の先生の担任は、優しい男の先生でした。嫌いな先生ではありません。しかし、いつもお酒の匂いがしていました。当時、私のお袋が小料理屋を営んでいました。その先生は、お袋の店でかぐお酒の匂いと同じ匂いがしていました。

また、小学校の高学年の担任の先生は、ことあるごとに「学級裁判」というのを開きました。私も被告席に立たされたことがあります。裁判長がクラス委員長で、弁護士が班の班長さんでした。クラスの中で階級ができていました。昭和40年代の後半です。

中学校と高校の先生

中学校のとき不思議なファッションスタイルの国語の先生がいました。その先生は、いつもワイシャツにジャージのズボンをはいていました。そのスタイルで自転車に乗って学校に来て、そのまま授業をしていました。また、その先生はいつも竹刀を持っていました。「ケツバット」という罰があり、忘れ物をしたりすると、竹刀でお尻を叩かれました。

高校生のときは、タバコ臭い先生がたくさんいました。私の高校は、職員室が3つあり、それは本隊となる職員室、理科準備室、体育準備室の3つです。その内の一つの理科準備室が喫煙ルームでした。最悪なことに高校1年、2年のときの担任が喫煙ルーム在中の先生でした。私は、煙草の匂いが大の苦手です。職員室に呼ばれるのが苦痛でした。

また、3年生の時の担任は、体育準備室の住人でした。体育準備室の先生は、日焼けした強面の先生ばかりでした。そこでは、何事にも大きな声を張り上げなければいけない暗黙ルールが存在していました。昭和50年代の先生たちです。

恩師

その後、私は専門学校に進みます。専門学校は、外部講師ばかりだったので先生と深くかかわることもなく、卒業をしてしまいました。良い思い出のある先生がいません。私は「恩師」というものにあこがれてきました。

それから30年後、私は早稲田大学エクステンションセンターで学びなおしを始めました。それがきっかけで通信制の大学に入学をしました。早稲田大学エクステンションセンターで出会った先生が私の恩師です。

連続投稿1000日まで、あと39日

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