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「ご感想への返信2023」No.18

 連絡先にいる同性のパートナーは、法的家族以上にキーパーソンである可能性が高い。カミングアウトは必ずしも共感を求めてすることではない、というのが印象に残った。相手を否定してはいけないと考えるあまり、自分にもマイノリティ側の人に「いいんじゃない」という趣旨の返事をした場面があったように思う。受け手はいいか悪いかの判断をする立場にないと聞いてハッとさせられた。
 日ごろ周りと違う自分や、社会問題に興味がある自分に酔っているなとよく感じる友人が、一時だけ性的マイノリティを匂わせていてモヤモヤした経験があります。彼女は本心から言ったかもしれないし、私も彼女を否定も肯定もしなかったですが、性格診断なども流行し「自分はこういう人間です」と端的に表したがる風潮を受け、性的マイノリティもカジュアルに利用される肩書きになっていくのではと感じます。

 この話題についてあまりシリアスな態度を取りたくはない一方、真剣に悩んでいる人も少なくない中、気安く流行もののような扱われ方をするのには個人的に少し抵抗があります。こうした時代の流れや、冗談半分で性的マイノリティを引き合いに出されることをどうお感じになりますか。

学生の感想から

>> 自分に酔っているなとよく感じる友人が、一時だけ性的マイノリティを 
      匂わせていてモヤモヤした

 辛辣で好き。「友達」と書くところに優しさの片鱗も。
 あなたのお考えは明らかなようであり、この件について誰かに意見を聞くこともないのではないかとも思いますが、ひとまずお答えしてみます。


 そのお友達を私は知りませんが、社会問題や他者の痛みをインプットしてはそれをアクセサリーに自己顕示欲を撒き散らすモンスターのようなイメージをもちました。鋭敏なアンテナと豊かな表現力は不幸にも自らの役目を知らず、ただ周囲をうんざりさせるためのアウトプットに終始する。概して言えば、彼女の自己顕示欲(あなたが問題に感じているのは彼女の自己顕示欲だと思います)は歪んでいると私も思うし、あなたが彼女の行為に批判的なまなざしをもてることは、祝福されるべきだと思います。他者の痛みを遊びのようにまとい着飾ることは、その他者が伝えようとしたことや、発信の意味、切実さを変質させてしまう。助力しようとした周囲の厚意や努力も無に帰し、やはり変質してしまう。

 いつも駅前で女性に声をかける高齢者男性がいました。毎日いるのです。「徒歩4分のマンションに住んでいるが、コンビニに来たら体調が悪くて一人で帰れなくなってしまった。同行してくれないか」と女性に言う。女性たちは同情しながらも断っている。ある日、断れずにいる女性がいて、私はとうとう老人(と、同行しかけている女性)に声をかけました――「いいですよ私が同行して差し上げます。慣れてますから」。すると老人は「結構です」と言う。私は女性に「ここは大丈夫ですから」と言い、老人に「ご遠慮なさらなくていいでしょ。歩くのおつらいんですよね。私なら背負ってお送りできますし」と言葉を重ねる。老人は「大丈夫です。結構です」と言い張る。その日以来、駅前に老人が立つことはなくなりました。数か月後、同じ駅のトイレで女性清掃員が作業中なのに小便器の前でズボンとパンツを膝まで下ろしているその人に再会することになるのですが、お互い相手に気づくと老人は出て行きました(駅員には私が事情を伝えました)。その老人は傷病者を装うことに罪悪感はなかったのでしょうけれども卑劣であるし、本当に救護を必要とした人が、誰の手助けも得られない社会を作ってしまう。

 「どう感じるか」というあなたの質問にお答えするならば、私は上に書いたような事例と同じように人々の厚意を裏切り変質させていく点で問題だと思います。事例は女性の被害が考えられるので深刻な問題が別にもありますが、人々の善意や行動が健全に育つことを阻害し、支援を必要としている人々に対する偏見を深めてしまう点を、そのお友達に(彼女が当時自分が性的少数者だと本当に思っていたのでなければ)考えてもらいたいですね。


他者の痛みに対する「不敬」と、自己存在への「不敬」


 この週末は「真剣に悩んでいる人も少なくない中、気安く流行もののような扱われ方」をすることについて、考えていました。他者の痛みへの不敬という問題を通じて、私は皆さんと何を共有するべきだろうかと。とまあ、ここからが本題です。

 他者の痛みをファッションのように扱う彼女の問題は、性的少数者の被差別状況が社会において今も低くおかれていることを象徴するかのようですが、こうした他者の痛みに対する不敬が、とりもなおさず自己存在への不敬であることを、皆さんと考えておきたいと思います。この社会に生きる人々が、他者/社会の問題にどのようなスタンスでいればよいのか分からずにいるという「問題」ではないのか。それは自己/個人の痛みを、どのように他者/社会に表現できるか分からないし、適切に取り扱われるという実感にないという「問題」の延長であるのではないか。私はそう考えますが、皆さんはいかがでしょうか。この「友達」が軽く扱っているのは、性的少数者の痛みだけではない。自分の痛みをどう扱えばよいか彼女は知らない。差別問題のフォーカスされない他面は、そうした「スタンスのなさ」、定まらなさという点です。あなたが家庭教師で受け持つ生徒が応用問題を解けないとしたら、「基礎ができていない」と言うでしょう。差別に対するスタンスも同じです。例えば私にとって女性問題は、現在の私につながる教えであり学びでした。少数民族、在日や部落のこともそうです。それらが私の命脈であることに疑念の余地はありません。だから私が皆さんにお話しすることは、そうした先行する活動から継承した内容であることが多いのです。皆さんは若い女性で、学生です。皆さんが継承してきたはずのものを思えば、私とは対等に差別について語れなければならない。とりわけ、今回のような話では。

 今回の話は、「誰もが虚実とりまぜてイメージを消費している/されている」という問題です。誰もがイメージを消費され(モノ化させられ)同時に消費している(モノ化している)という現実があって、これは性的少数者が固有におかれた被抑圧状況であるということができない。皆さんも自分をモノ化してくる眼差しや社会のシステムの中で生きている。あらゆるイメージを消費されている。本来であれば、もう皆さんには差別問題に対する明確な回答がなければならない。あとは応用です。性的少数者というテーマは、応用問題です。私はこれが皆さんの問題でもあると分かっている。しかしこの話に出て来る「友達」は、自分を守る術を学んで来なかった人に見える。絶対に安全なところにいると信じた、無防備な人に見えます。おそらくその辺りに、「マジョリティ問題」の軸あるいは核があるのでしょう。

 今朝、私は皆さんにこんな質問をしてみたいと考えていました――「差別の最後のひとつが消えるとき、皆さんが想像する世界はどんなものですか」。この講義の終わりには、皆さんの心の中にはそのイメージが生まれていなくてはならない。一冊の物語の、終わりの部分です。世界に差別はなくなり、人々はどのように暮らしているでしょうか。私も考えます。

 


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