見出し画像

「乗り合わせた人」メモ

 パートナーと話した。老人の一人語りを受けて短い会話をした話を。

 「無意識で誰かに聞かれたかったんだろうな」と彼は言う。私も同意する。老人は誰かに聞いてもらえると期待していなかった。しかし行動によってサインを出していた。内面が制御できず表出している状態はいわゆる「表現」や「発信」と区別して考えられなければならないだろうが、老人の行動を「S.O.S.を出すための準備段階」と捉えることは充分に可能だろう。いずれ発信につながると考えれば救済の近くにいるのか。老人が「声に出した」「声に出してみた」という点はとても歓迎できる。人が声に出すことを恐れるのは、聞き届けられないと「状況/内容の両面を」思うからだ。最も恐れが強い時には、人は現実を認めない。当然言語化しない。しかし老人は心が裂かれるような事態を「声に出すことで」認めた。通りすがりの私を立会人として引きずり込んで。そこで行なわれたのは禁忌の解除、「解放」の儀式だ。

 私がしたこと――とっさに立会人としての役を引き受け、老人の独り言を聞き届けたことも、意識したわけではないが儀式的だった。老人が「発信」して共有が成立したことを私が認め、思いが聞き届けられる場面のロールプレイを行なった。悲痛な内面を他人と共有する行動と救済可能性を紐づけることをした。今では老人は「必要な時にS.O.S.を出せる」人である。 
 私は老人がそう自ら証明した場に居合わせ、確かに見たと老人に伝え「聞き届けられる構図」を作った――のであれば。老人はたったあれだけの経験から動機を育てられるだろうか。目的に向かうプロセス――あれは発信の効力を確認する準備行動だったのだが、次の段階に行けるだろうか。支援を求められるだろうか。……分からない。

 しかしそれでも、予期せずの事態における対応として、自分の中に瞬発力があると感じられたことは嬉しい。しかしあれだけでは弱い。「あなたは必要な時にS.O.S.が出せる人だ(だから大丈夫)」と念押しすべきだった。できればもっと確実なことも言いたかった。高齢者には挫折している時間がないのだ。次回はもっと上手くやろう。

 老人が不安を声に出した行動は、悪魔の名前を呼ぶことに似た。囚われ隷属するのではなく支配するために痛切な感情も口にしてみること。なんというポテンシャルだろう。人はなんと強靭だろう。そう在れる。声に出せ。不安を、恥を、無知を、痛みを、弱さを、言葉にせよ。それらを支配せよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?