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ジオニック社製、型式番号MSM-04

 「父さんにもぶたれたことないのに!」と言っていた人が還暦を過ぎて不倫相手を殴っていたというニュースなんて聞きたくなかったな。例のお方が単独会見を開いて「坊やだからさ」と言ってくれたら。それで済むわけじゃないだろうが、なんだか救いがない気分に区切りをつけたいのも本当だ。相手の方にも彼女を育てた父親にも、区切れない思いは続く――ファンも。
 私はガンダムファンではない。プラモデルに夢中だった子ども時代があったが、アニメは観てなかったからファンじゃない。そのことにホッとする。

職場で羊羹をいただいた。「わあい」感を出せるモビルスーツはアッガイしかない

 この羊羹サイズ感がいいですよね、ありがとうございます、頂戴しますとボスに言ったら、「一本でいいの?」と聞かれた。
 「二本だったら?」
 「あー幸せですねぇ!」
 「三本だったら?」
 「最高ですねえええ!」
 三本、手のひらに乗せてくれた。
 あとは好きなだけ食っていいみたい。ラッキー。

あいにく手持ちの東京ドームを切らしていたのでアッガイを並べてみる。お前いつも嬉しそうだな

 9歳、遊びに行ったキクチ君の家でガンプラを見た時の衝撃は凄かった。「こんなすごいものが」1/144スケールで300円で、1/100スケールの「もっと上のやつ」があるなんて信じられなかった。でもなんか、多くはカッコ良すぎて、キラキラ加減に馴染めなかった。そこで躊躇なくガンダムやザクに行ける子もいるんだろうな。私はアッガイに親近感を抱いた。何を間違ったのか後年キャラ立ちしてすっかり人気ものになってしまったアッガイだが、要は主人公クラスが搭乗しないような地味な立ち位置の機体だったのだ。そして私は子どもながらに自分が主人公クラスではないと分かっていた内気な子どもだった。自分はカッコ悪くて人生で出番がないと思っていたのだ。  
 自分について、人生について、そう理解していたのである。

 だから当然、最初のガンプラはアッガイだった。千葉のおばあちゃんちに遊びに行った時、おばあちゃんが町の小さな模型店に連れて行ってくれて、1/144スケールのアッガイを買ってくれた。どれだけ嬉しかったか分からない。その「モデルショップHORII」は現存しており、45歳の時、36年ぶりに入ってみたことがある。もちろん「君はあの時の子じゃないか!」なんてドラマは起きないし、昔のキットもなかったのだが、私は当時から続く時間を生き続けていて、今もよくその店の前を通りかかる。

300円なんて、夢みたいだった。凄いことだったと思っている

 思い出は現在も色濃く、懐かしい。ただ感傷だけがない。私は子ども時代に思い違いをしていたと、今では明瞭に分かっているのだ。人生に脇役でいられる時間などない。私はアッガイを割り当てられても自分の人生を存分に生きなければならないし、そうする。私の人生において、私はアッガイに乗る主人公なのだ。主人公じゃないからアッガイに乗せられたのではない。

 あるいはそのことに気づかなかったなら、私は「ガンダムに乗れなかった」と言い続ける人生を歩むことになっていたんだろう。ガンダムに乗れるのはたった一人の選ばれし者で、誰もがその位置を目指すべきで、選ばれなかったという思いを抱える圧倒的多数が失意のうちに人生を終えるなんて、私にはとてももったいないことに思える。向上心とは、きっと皆がひとつの理想を追うことじゃない。職場のデスクでアッガイのフィギュアに「わあい」させながら、そんなことを思った。
 




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