1から学ぶ写真の歴史#1
「温故知新」故きを温ねて新しきを知る。
誰もが知っている四字熟語ですが、なかなか実践できないものです。写真をやっているけど、その歴史を良くわかっていない。自分では新しい表現だと思っていても、実はとっくの前に誰かがやっていたなんてことは往々にしてあります。何も知らずにやって出来たものと、知った上で何かしらの意味を持たせて出来たものではその価値は大きく異なるのではないでしょうか?これから自分が作り出すものに価値あるものにするために、写真の「温故知新」をやっていこうと思います。
第1回目はカメラの原型となったカメラ・オブスクラについてです。
カメラ=ラテン語で「小さな部屋」と言う意味で、カメラ・オブスクラは「暗い部屋」と訳されます。
部屋と同じくらいのサイズの箱の片方に小さな針穴(ピンホール)を開けると、外の風景の光が針穴を通って、穴と反対側の黒い壁の像を結ぶと言うものでした。
画家がこの部屋に入り、壁に紙を貼って写し出された像を描き写し、下絵を作ることに使用されていました。
この装置を使うことの利点は、結ばれた像の遠近感(パースペクティブ)が目で見たものと同じなので、リアリティのある絵が描けることにあり、15世紀の線遠近法(透視図)を使った空間表現に使用され、その透視図法は16世紀に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチの作品でも使われています。
カメラがルネサンス期の絵画に大きな影響を与えていたとは!
誰もがご存知の「最後の晩餐」
キリストの頭に向かって、天井や壁、床、テーブルの奥行きの線が伸びています。さらに人物の目線の高さが揃っています。この目線の高さに奥の水平線のラインが重なっています。まさに一点透視図法ですね。
さて、日本にはいつ持ちこまてたのでしょうか?
1645年にレンズが付けられ改良されたものがオランダから出島に持ち込まれたという記録が残っている様で、当初「暗室写真鏡」「暗室鏡」と呼ばれた後に「写真鏡」として名前が定着しました。そしてこの名前は杉田玄白の著書「蘭学事始」(1815年)にも記載があります。
「写真」という言葉がこの時点で存在していたんですね!
『南総里見八犬伝』で有名な曲亭馬琴(滝沢馬琴)の「阴兼阳」(かげとひなたの)珍紋圖彙」(1803年)という書物にもピンホール型のカメラ・オブスクラの絵が描かれていて、「蘭画びいどろかがみといふものに似たり」と記述しています。
そして、さらに驚くべき事実として葛飾北斎もこのカメラ・オブスクラの原理を「富嶽百景-節穴の不二」(1834年)という作品で描いているのです。
雨戸に開いた小さな穴から光が差込み、障子に逆さ富士が映し出されていますが、穴の形が複雑なため富士山は2重になっています。映し出された逆さ富士を見た2人の驚き様が良く伝わってきます。
「なんじゃ、これは〜!?」
「窓の外の富士山でございます。」
と、そんな会話がされてそうですね。
いろいろ調べてみるとカメラはダヴィンチや滝沢馬琴、葛飾北斎など、超有名な人物と関係があることが分かりました。絵画から写真に変化を遂げたと思っていましたが、実はカメラによって絵画の歴史を変えていたとは驚きです。
写真の歴史を学ぶことは、美術や文化、時代背景について知ることに繋がるがるので非常に有意義ですね。
初回はカメラ・オブスクラについてでしたが、楽しんで読んで頂けたでしょうか?
今後も写真の歴史を学びながらまとめていきますのでお楽しみに!
参考文献,webサイト
監修:飯沢耕太郎 [カラー版]世界写真史
ATLELIER BONRYU
富嶽百景-節穴の不二:スミソニアン協会図書館
阴兼阳:国立国会図書館デジタルコレクション
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