『ロング・ウェイ・ノース』

9月15日日曜日、晴れ

観てきた。

創作なので、「おいおい、そんな都合のいいことあるわけないだろう!」という場面がたびたびあるわけだけれど、「そんな細けぇこたぁいいんだよ!」。きれいでした。アニメーションならではの絵づくり。

アウトラインなしで描かれる世界は、ゲーム『ゼルダの伝説 風のタクト』を思いおこさせてですねえ……。あの絵柄、空気感が好きな人はきっとこの映画も好きになる。(ストーリーラインはまるっきり異なる)

* * *

ロシアって、世界観がちっともわからない。酷寒の地の宮廷貴族の在り方ってのが、それだけでエキゾチシズムを掻き立てる。

短編集(マンガ)『ヒューマニタス』の一編「ユーリ・シルバーマン」は、やはりロシアが舞台で社会主義と資本主義の戦いに(も)焦点を当てていた。ロング・ウェイ・ノースでもヒロインサーシャのおじいちゃんは北極圏にロシアの旗を立てるために乗り出していた。ロシア皇帝の威光を全世界に示すという価値観は、あの世界で暮らすある一定の層には当たり前の感覚なのだろうか。

サーシャがおじいちゃんを探す旅に出るきっかけは、貴族の父が娘を「一族の恥」とまで追い込んでしまったから、でもある。家族、一族の名を背負って生きていくというところに極めてアジア的情緒を感じる。けれどヨーロッパでもロシアでも、いや、これは封建的な世界の基本か。
この一族・氏族、血族のつながりを一蹴したのが資本主義。能力(と運と)を持つものがいつでも下克上できる。誰もがいつでも他人の足を掬うことができる。

能力さえあれば、いつでも機会がある──というのは一見「公平」で「平等」でもあるようにおもえる。でも能力がなければ奴隷に甘んじるしかないということでもある。結局のところ、血筋による縛りか、能力による査定か、なにがしか超えられれない壁を設定して階層化がなされるという点で、どちらも不幸の形は変わらない、気がする。

資本主義のほうがえげつなく上層と下層の超えがたい断絶を生み暴走する気もする。
距離が開くほど、人は想像力が届かなくなる。暴走トロッコの軌道を自らの手で切り替えるのと、ビデオ映像を元に遠隔スイッチで操作するのとでは負担が違うし、さらに別の部屋で指示するだけともなれば呵責など空気のように軽くなるだろう。
金銭というメジャーで能力を測るとき、恐ろしいほどの桁の違いが生まれるのが資本主義で、そしてそれを「自分の能力」だと誤解しやすいのもまた資本主義だろう。人が人をおもわなくなる仕掛けがそこかしこにある。(とはいえ、社会主義計画経済が最善かと言いたいわけではない。資本主義のほうが効率よく人間性を喪失できるよう組み立てられた装置だという話)

いや、ロング・ウェイ・ノースとは全く違ったところに話が飛んだ。

ときどきの極限状態において、好きだと言える人を、好きでもない人を、守れるように人が動ける世界ってのが、いいですね。(無理やり。各種場面をおもいだしながら)

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