コミュニケーション嫌い
人には、これ以上は近づいて欲しくないと感じる固有の間合いがある。
これをパーソナルスペースと呼ぶ。
と、いきなり始めたけれど、以下のツイートをきっかけにいくつか考えたことがあって。
「まるでわからない」とまで書かれてしまった。
でも、僕は人に頼ることを極端に避ける。(こどもらも、どうやらその気質を受け継いでいるみたいに感じる)
なぜ、どうしてと聞かれても、そうだからだとしか言えないし、どれほど説明しても納得はしてもらえないだろう。
これはきっと、人間のつくりが違うからだ。
パプリカさんが「結果として得られる利益」という説得材料を提示しているけれど、それをもって僕も、納得して「よし! 話しかけよう!」とはならない。
たぶん、これは直感的なもの。
どれだけ理由を考えたところで、後づけにしかならない。
お互い、「どうして、なぜ」を言い募ったところで、平行線で終わる話だ。
とはいうものの、なんでだろうなあ…… と考え浮かんだことはメモしておく。
面倒
自分が探していること、求めているものを、知らない人にわかってもらえるよう言葉を重ねて伝えることが辛い。
なぜ声をかけて聞かないの? そう聞かれたときに真っ先に浮かぶ言い訳は、これ。
恐れ(拒絶)
声をかけて、拒絶されたらとおもうと怖い。声をかけること自体、かなりエネルギーを使うのに、それで知らんぷりされたり睨まれたり、悪くしたら悪意をぶつけられるかもしれない。
これは、かなり堪え難い。
恐れ(プライド)
「知らない」という事実を認めたくない、
他人に自分が知らないという事実を知られたくない。
そんな拗けたプライドもあるだろう。
負担への妄想
声をかけて応じてもらえたとして、迷惑をかけることが心配。相手にも都合がある。でも、応じた以上、最後まで手伝おうとしてくれ、そして、それにとても時間がかかるかもしれない。それには返報できない。
これは、僕が往来で声をかけられたときは決して断らないこと。そして面倒と感じたとしても、予想外に時間がかかったとしても、できる限りの対応をしていることと裏表の関係にある、気がする。
不思議なのは、僕が求められて対応したときは「ありがとう」って言われたら十分報いられたと感じているのに、相手に求めたときは言葉だけで足りないと感じてしまう非対称性があること。
ここまでは僕から声をかけることをしたくない理由。
僕が声をかけて欲しくない理由は、見られたくないからだ。
見られたくない
自信がないから。
僕は常に、自分の基準に照らして未完成で不完全。
そんな不完全な、できていないものを見られるのは堪える。
数年前の話だけれど、僕はドラッグストアで毎日のようにココナッツサブレを買っていた。(僕は炭水化物が大好き)
ある日、レジの女性から「毎日買ってますよね。 美味しいんですか?」と言われて、「ええ」と相槌を打って何やかや(如才なく聞こえるように)言葉を継いだ(つもりでいる)。
でも、これが果てしなく嫌だった。
踏み込んで欲しくないところに入り込まれた、
見られたくないところを覗きこまれた、
そう感じて、その日を境に、そのドラッグストアでは買い物をしなくなった。(こうして並べてみると、僕は僕自身に自信がなくて、それを人に知られたくない。その恐れから殻に閉じこもっている、そんな気がする)
一方で。
そうやって客の顔を覚え、商品を揃え、できるだけ気持ちよく買い物ができるよう準備している人の努力を、僕はないがしろにしてしまった。
このように自分を責めることも、できる。(これはまた、堪える考え方だ)
感謝のあらわし方
会話はしたくない。
でも。僕は自分を、存在しないかのように扱われることも、たまらなく堪える。(面倒だ。果てしなく、面倒だ)
だから僕は、あなたたちがいるということに「気づいていますよ」と、レジの人にも、道端でチラシやティッシュを配っている人にも知らせようとしている。
受け取らないけれど、ごめんなさいという顔を作ってから目礼して通り過ぎる。(ノルマがあるから、受け取ったほうがいいのだろうけれど。ごめん、受け取ったものを捨てるのは、それはそれで堪える)
どこのレジに並んでも「お願いします」と商品を預け、お釣りを渡されるときに「ありがとう」と声をかけている。(この行為を「気持ち悪い」と言う人がいることも、知っている)
どれが正しいとか、間違っているとか、そういうのではなくて。
いまのところ、僕は、こういう生き方をしている。
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