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「英国一家、日本をおかわり」

ようやく読み終えた。

かつて前作「英国一家、日本を食べる」を読んで、これが NHK でアニメ化されてこれも観ている。そのつながりで、読もうと手を出した。
(余談だけれど、アニメ版の監督は「目玉焼きの黄身いつつぶす?」のアニメ版も手がけている。「やわらか戦車」や「くわがたつまみ」で、当時、裏声まで駆使して Flash アニメを使っていた人)

外国人から見た日本というのは、ふだんの暮らしでは気づきえない「当たり前」が、途方もなく尊いことなんだとか、あるいは非常に奇妙で受け入れがたいことなんだとか、そういう認識の再設定をしてくれる。

日本の食材や調理法がいかに優れているかの絶賛を読むと、自分が作っているわけでもないのに自尊感情をやけにくすぐられてこたえられない、というのもある。(それでも、そういう恵まれた食事で育っているんだ、だとかなんとか)

きっかけ

この書籍の出版を知ったのは本当に偶然。

去る4月6日、朝日新聞主催(協賛?)『GLOBEトークイベント「日本人が知らない日本食の世界」』に参加したからだ。(そういえば僕は、そこではじめて六本木ヒルズに足を踏み入れたし、渋谷との位置関係を「足で」知った)

余談が重なるけれど、主催の関係なのか場所柄か、イベント参加者は年嵩の方が多かった。
トークの主賓の一人である著者マイケルは、親日家、というか日本食を愛してくれるイギリス人(だけれどデンマーク在住。奥さまとのご結婚の関係から?)だけれど、日本語はダメみたいで逐次通訳つき。
驚いたのは、参加者の年配の方々が通訳前にマイケルの(ときにシニカルな)冗談に笑い声をあげていたこと。僕も頑張って半分くらいは聞けたつもりだったけれど、敵わないな。トークイベントに参加するような資本持ちは、やっぱり教養の持ち合わせの度合いも段違いだと感じる。

イベントのもう一人の主賓、 dancyu 現編集長の植野広生さんは、マイケルを現代のイザベラ・バードになぞらえて話をしていた。
その時は、さすが、なんとも造詣が深いと驚いたものだけれど、元ネタは上梓直後の「〜おかわり」にあった。
P.343、『ヴィクトリア朝時代の紀行作家で探検家でもあったイザベラ・バード ── 彼女が日本について記した文章は、全般に尊大で不快にも感じる ── は、一八七八年に東京から北海道まで旅をして、』。
ふむ。文章のなんたるかに細心の注意を払っているだろう物書きに対し、その人自身が「尊大で不快にも感じ」た書き手になぞらえらたのは、果たして良かったのだろうか。

独立、自立

「英国一家、ますます日本を食べる」にあった「豆腐よう」エッセイの核廃棄物の例えについて、どこかの試験問題だったか教科書だったかから削除されたという朝日新聞の記事については脱線が過ぎるのでやめる。

僕がこのポストを書こうと、書かなければならないと思い定めたのは、「米」について書かれたエッセイの最後 P.370 からの一文を読んだからだ。

 僕は、アスガーとエミルが田植えの手伝いを一日中続けられるかどうかが心配で、ふたりはこの重労働を成し遂げるのか、それとも音を上げるのかと気を揉んでいた。(中略)実際には、息子たちが僕を何度となく助けてくれた。ふたりの方が僕を心配して、気にかけてくれていたのだ。(中略)ふたりは田植えのあらゆる場面で僕より有能で(中略;諸々作業を)手伝ったりした ── 本物の男の仕事だ。
 (略)僕の方が間違っていた。同じようなことは、もちろん家でもよくある。特に、(中略)テクノロジーの難題が降りかかってくるときだが、田植えは屋外でする昔ながらの肉体労働だから、僕の方がうまくやれて当然だと思っていた。とても大きな分岐点が訪れていた。僕は初めて、もう息子たちは僕のアドバイスをさほど必要としていないと気づいた。感傷は抜きにして、僕はパパから親父になったのだ。
 (略)緑の田んぼで過ごした時間が、僕にこう教えてくれた。心配は要らない。子どもたちはもう大丈夫。何が待ち受けていようと、ふたりから手を離し、世界へ解き放つのだ。世界は喜んで彼らを受け入れるだろう。お前を受け入れてきたように。

言わなくてもわかるかもしれないけれど、これを読んでいて、僕は感情をどうしようもなくなって泣いた。
これを筆記している今もまた、ボロボロ涙が溢れてきて困っている。

僕も、(できる範囲で、だけれど)こどもらにできる限りのことを教え、諭し、導こうとがんばっている。(でも、導くなんてことはできていなくて、羽交い締めにして引きずり倒そうとしているようにも、よく感じる)

ただ、
そう。

もうすでに、こどもらの方が僕よりも大人なところを持っていて、たくさんのことを自分でできるようになっていて、この壊れそうな僕を、心配して支えようとしてくれているんじゃあないかなって。

子は親を選べないし、親も子を選べない。

そんな中で、たまたま巡り合わせた僕を、大事にしてくれているんだろう。
そうおもうと、やるせなくて、申し訳なくて。
そして、だから。
君たちが成人して独り立ちするまで、
せめて僕ができる精一杯で支えないとな。
手を離し、その進みたい方向へ向かって、背中を押してやらないとな。

文化の果てるところ、あるいは始まるところ

西欧諸国から見ると日本は東の島国、最後の未踏の植民地(候補)。地理的な恵みもあって、いまだに多民族国家に侵略・制圧されたことがない(それでも、いろいろな文化が入って来もする)。

「〜おかわり」では、このうち食文化を焦点しているのだけれど、「だし」に見る旨味や、多様な酵母を使った「発酵」、食材など、欧米がまだ「発見」していない宝の山がザクザク、無造作に転がっているのだと感じる。

また同書では、「おもてなし」や「職人気質」も、世界で一番優れていると折に触れ賞賛している。職人気質については、僕も、異常なこだわりや執着をもってことに当たるし周囲にも(自分のこどもも、だ)多い、気がする。地球規模で見たときに、こういう形質持ちの比率は、日本は多いのかもしれない。
(でも著者のマイケル・ブースだって、食に関する調査を続けている。誰に頼まれるでもなく、求道者のように。それが自らの楽しみだからだろう。たぶん、稼いでは食べ、調べ、食べたことを記事にして稼ぎ。「なぜ食べるんですか?」って聞いたら、インタビュイーが戸惑ったようにマイケルも言葉に詰まって職人であるかのような答えを返すんじゃないかな)

もとい。

ガラパゴスと自ら揶揄したり卑下したりもするけれど、やっぱり日本は特異な文化を育んでいる。地球という環境の中で、しっかり保護され(いや、自分たちで保護して)、多様性を担保する地域でありつづけられたらいいと、心底おもう。

ネガティブの焚き上げ

三ヶ月前は 300 頁程度の書籍なら1日一冊(通勤時間の往復三時間)ペースで読めていたはずなのに。
ここのところ集中力が続かなくて二週間ちかく(うち、実質読んだのは五日間で、日によって多くて3時間くらいか?)、かかってしまった。

「集中力が続かない」だとか「読む速度が遅い」だとか、ネガティブな思いに囚われるのをなんとかしたい。

今回の「〜おかわり」を読み上げるまでに時間がかかったのは、前の「〜食べる」のライトなエッセイが一転して、調査の量が増え洞察が深くなったからだろう(全体を見て、もちろんライトな挿話も散りばめられているのだけれど)。

食に関するうんちくエッセイ集といえば、「悪魔のピクニック」も楽しかった。おいしいフライドポテトを揚げるためには馬の油が外せないとか、アブサンのエピソードだとか。当時、とても楽しく読んだ。
(あれ? 畜産業が世界規模の環境汚染 ── 呼吸とゲップとおならによる温室効果ガスと、糞尿 ── を招いている話は、この本だったかな?)

ここのところ読書速度が落ちているのは、まじめに読みすぎているから、なのかもしれない。筆者の言わんとすることを、できるだけ一読で、余すところなく吸収しようと、足掻くからかもしれない。

「この1行、一文に著者がどれだけの時間と命をかけたか。
 なおざりには読めないぞ」
そんな態度で臨むから死ぬほど疲れる。

もう少し軽く。
読み流す感覚で楽しめるところを楽しむ。
気に入ったら読み返す。
そういう、気軽な読書に移るのが、いいのかもしれない。

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