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Episode35 『いかがわしい男⑨』

「まったく、りょうと旅行に来るといつも雨だな」

これまで何人の男や友人たちにこう言われてきたことだろう。
そう、彼らは正しい。俺は子供の頃からまごう事なき雨男。

そしてそのレッテルは、いつも伏し目がちで、辛気臭い俺のイメージに皮肉なほどピッタリだった。

Episode35 『いかがわしい男⑨』

主要な駅を過ぎ、乗客がごそっと降りて閑散とした電車内。
俺は空いた席に腰を下ろす。いつもと同じ席だ。
窓の外の景色は、途端に建物が低くなり始める。どんよりと垂れ込めた雨雲が、俺についてやってくる。まもなく雨が降り出すだろう。
うんざりした気分で俺はカバンからキオスクで買った缶ビールを取り出す。
プルタブに爪を立てると、プシュッと軽快な音がして、それだけが夏らしかった。

それを飲みながら斜め向かい側、ドアの端に身を寄せ合っている制服姿の、若い男女に目をやる。

男の家へ向かういつもの時間のいつもの電車、いつもの車両。
2人はいつもそこで仲睦まじそうに手を繋いで、おしゃべりに興じている。
そして俺と同じ駅で降りる。俺が男と爛れた関係を愉しんでいるのと、同じ街に、彼らは住んでいる。今夜は2人の上にも、俺の連れてきた雨雲が雨を降らせるだろう。

2人が何か言葉を交わし、そして楽しそうに小さな声で笑う。
そうして笑う時、2人ともマスクの鼻のあたりを指でつまむ癖があることを、本人たちは気がついているだろうか。
多分初めはどちらか一方の癖だったのが、いつしかもう片方に移ったのだろう。微笑ましいものだ。
「俺たち」にも、そんな部分があったりするのだろうか。10年も一緒にいて、ひとつも思い浮かばない。

電車が駅に着く。2人は降りる。俺も降りる。手を繋いだ2人のカバンには、お揃いのミッキーとミニーのぬいぐるみがそれぞれぶら下がっている。
俺はそれを目で追いながら、飲み干したビールの缶を握りつぶす。

改札を出るとやっぱり雨が降り出した。
スニーカーに防水スプレーをしてくるのを忘れていたことを思い出して、思わず舌打ちをする。
コンビニで傘を買おうと歩き出すと、そこにはさっきの2人がいた。
駅の屋根の下で、抱き合って、キスをしていた。
美しい姿だと思った。2人の上には、雨など降っていなかった。

その脇を通り過ぎて、コンビニまでの道を走り出そうと思ったら、俺の視界に突然男が入り込んできた。

「わあ、びっくりした。なんでいんの」
「傘持ってないと思って、タバコ買うついでに迎えにきたわ」
「タバコ買うついでに、の部分いらなくない?それに…」

男の手には濡れた、それも小さくてオンボロなビニール傘が一本握られているだけだった。

「雨の中を迎えに来る時は、自分の分だけじゃなくて、もう一本俺の分の傘も持ってくるべきでは」
「ああ、そうか。全然気がつかなかった」

馬鹿なのか?

「なあなあ、りょう、あれ見ろよ」

男が、まだいちゃついている2人を顎で指す。

「いいなあ、俺たちもしようか」
「いつももっとすげえことしてるだろ、俺たちは。いいから早く帰ろう。傘買って」

だけど俺たちは結局その小さな傘一本でそれぞれ右半身と左半身をずぶ濡れにしながら帰ったし、なんとなく空気に飲まれて家まで待てずに往来のど真ん中で濃厚なキスもした。
いい年をした酔っ払いの男が2人、雨に濡れて人目も憚らずキスしている姿を、あの子たちも見ていた。
どうだ、これが大人のキスというやつだ。すげえだろ。

「あの子たち、どんどん仕草が似てきて、かわいいんだよね。若い子は柔軟だから、すぐ相手色に染まっちゃうんだなあ」

雨に濡れた体をシャワーで流して、下着姿のままタバコをふかしながら俺は同じ姿の男に言った。

「大人は頑なだから、10年一緒にいても、そういうことは無くなっちゃったね」
「いやいや、それ」
「それ?どれ?」

男がおかしそうな顔で俺の首筋あたりを指差す。

「タバコ吸うとき、首の関節、ぼきぼき鳴らすじゃん。そうやって片手当てて。それね、俺たち2人ともよくやってるらしいよ。俺も人から言われて気がついたけど」
「げえ、まじか。全然気がつかなかったけど、そういえばそうだ」

俺たちは裸のままひとしきり笑って、ひとしきりタバコを吸って、ひとしきりいちゃついて、それから開け放した窓の外を眺めた。
雨とタバコの混じった、いい香りがした。

「しかしよく降るなあ」
「悪かったな、俺が雨男で」
「いやいやいや」

男は新しいタバコに火をつける。

「そんなん、迷信っしょ。梅雨前線と低気圧のせいだっつーの。それに雨の日はタバコがうまい」

窓の外の雨を眺めながら、そう言い放ち、煙を吐き出す。首に片手をそっと当てて、関節をボキボキと鳴らす。
俺は瞬間、男のその仕草を、自分と同じだというその仕草を、心底愛おしいと思った。思ってしまった。言ったら調子に乗るから、絶対に口にはしないけれど。

男の浅黒い素肌に手を回しながら、俺は若いひと組のカップルを思った。
彼らも今頃こんなことしてたりするんだろうか?

「あんなガキ共に、こんなすげえことできねえだろ」

その夜俺たちが、どんな「すげえこと」をしたのかは、もちろん内緒だ。
雨はまだ止まない。

つづく。

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