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「カミングアウト」の負荷
「性自認」の話を前回したので、次は「性指向」の話かなと思っていたのですが、間に別の話題を挟みます。
私は、今まで家族、パートナーに、
「今日、はっきりとカミングアウトする」
という気持ちで、「秘密にしていたことを打ち明ける」ということはしてきませんでした。
言うなれば今、夫に対して今それを行う必要性が出てきたため、行っています。
前回記事で触れた牧村朝子さんの著書「ゲイカップルに萌えたら迷惑ですか?」はとてもいい書物ですが、それ以前にまずは、
・「性自認」「性指向」が別物であること(シスジェンダー・ヘテロセクシャル、つまりは性自認が出生時と一致しており、多数派である異性愛者である人の場合、二つを分けて考えることはまず意識しなくては難しいことのように感じます。少数派当事者の人であっても、混同してしまうことがあります)
・どういった性自認、性指向が存在するか、これについてどういった研究、論文が存在し、これを語ることに客観的信憑性があること
などを理解してもらおうとしています。
学生時代によく使っていたのはCiNii(国立情報学研究所が運営するデータベース群)でしたが、使い勝手としてはGoogle Scholar(学術用途での検索を対象としている。論文、学術誌、出版物の全文やメタデータ群)がデータによりアクセスしやすいです。(個人的な感触です)
性自認等のテーマに関しては、研究対象が数値化できるものではありません。個々において慎重な分析が必要となります。
ナラティブ分析というものがあります。
これは、個別の研究対象者の物語を分析する手法です。
対象が人間であり、個別の事例を分析する段階であるジェンダーやセクシャリティの研究には、よく使われる分析のようです。
いくつかの論文を読み、少数派当事者として、的を得ていると感じる論文を「性自認」関連2本、「性指向」関連2本ピックアップし、印刷して簡易的にその論文の要旨を書いた付箋を付けました。さらにGoogle Scholar自体のリンクを添えて、夫に託しました。
これに君のことは含まれるの?どれが何?と読む前に質問はあり、付箋を読むよう頼み、結果的にはありがたいことに、読んでくれるようです。
これが合うやり方かどうかは、人によります。今回もどういう結果が出るかはわかりません。
そして、その一連の行動を終えた私は、今どっと疲れています。
これがもしかしたら「カミングアウト」の負荷、負担、疲労なのかもしれないと思いました。
今までは、勝手にTwitterのプロフィール欄に性自認と性指向を記載し、それにより自分自身は困ることなく一人で生きてきました。家族にも特に説明はしていません。自分がそれであることで充分気が済んでいたからです。
この頃の私は「カミングアウト」とは無縁でした。
アウトされた状態ではありますが、自分が自分であれば何の問題もないわけで、誰の反応も特に求めてはいませんでした。自分のWikipediaに「ノンセクシャルかもしれない」とツイートで発言したことがあえて取り上げられた時は、「なぜわざわざそんなことを記述する必要があるのだろう」と感じたものです。Twitterのプロフィール欄には字数制限があるため、その時々で入れたい情報が変わるため、Xジェンダーである記述を省いたこともありました。すると、「あの人は本当はXジェンダーじゃなかったんだ」と言われているツイートを見かけたこともあります。また私は、「そんなに気にされてしまうことなのか」と驚いたものでした。しかし、それはやはり私が社会との関わりに関心が薄かったからなのかもしれません。近しいごく数名の親友は私がマイノリティであることを気にしません。そこで私の思考は完結してしまっていたのだと思います。
夫とは同じ家に暮らしており、毎日何かしら話します。
ここに「社会」が存在します。
私は出生時性別が女性であり、夫は男性で異性愛者である、更に私たちは夫婦であるため、私は自分をきちんと説明しなくては、生活上、自分の心理が時々傷つく状況が生まれることに気づきました。
それにより今日のような、「カミングアウト」に付随する行動が必要になっています。
世のカミングアウトしている人たちは本当に偉い、と心から思います。こんなに自分を掘り下げて、自分が何者であるかを分かりやすく分類化するなどしてそれを更に他者に説明しなくてはならない、そして場合によっては、他者の理解が得られるまで色々なアプローチが必要になり、多くのエネルギーをこの件に割かなくてはならない、そしていい結果が得られるとは限らない、大変骨が折れる体験です。難しい授業の資料の準備をしている気分です。できればこんな大仕事をしたあとは一日中ゲームでもするか、昼寝していたい気持ち。
それでも夫を好きになり、結婚したのは私の選択であり、共に生きていけることには感謝を感じます。
これは現代社会のセクシャルマイノリティへの認識の浸透度合いを考えると、避けられない儀式に近いものなのかもしれません。
いつかこんな儀式が社会で不要になればよいと思いながら、私は少し昼寝をすることにします。
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