映画評 『関心領域』 

ネタバレ注意
6月10日に話題の映画『関心領域』を立川でみてきた。「ユダヤ人絶滅の最終的解決」の悲劇と残酷を抑制的に描くとどうなるかが見事に表現されている。本心から申し上げるとあまり怖くはならず、命を懸け恐怖にかられた人たちの絶叫を聞くたびに悲しくなった。
怖いシーンはヒトラーユーゲントの服装を子供がお出かけ服を着るように来て外出していたことかな。なお壁の向こう側を描いた映画はいくつかみてきたが、ルルーシュ監督の『愛と悲しみのボレロ』が、映像による解説としても秀逸だと思う。
ヘス所長とメランコリー親和型性格
ルドルフ・ヘスについては予備知識があった。アウシュビッツの収容所所長としての悪評、戦後裁判にかけられたことに加え、精神科医の故・安克昌先生が学術集会の司会をされたときに「ルドルフ・ヘスはメランコリー親和型性格」と少し唐突にいわれたことがずっと記憶にあった。メランコリー親和型性格とは、うつ病になりやすいドイツで研究された性格であり、秩序志向、生真面目、忠誠心、強迫的勤勉、環境との一体化を主とする性格をいう。日本では執着性格がこれに近いといわれたが執着性格は躁病の気配(躁的成分)があるのに比して、メランコリー親和型はもっぱら「うつ病」になりやすい性格で一貫している。ドイツで研究と臨床もした精神病理学者木村敏によるとメランコリー親和型性格はドイツにおいて「ダメな人」と目されている、と直に聞いた中井久夫さんがどこかで書かれていた。たしかに映画において淡々と秩序を守り自分の生活を維持しようとする姿は狂信的なナチではなく、私が長年想像してきたルドルフ・ヘス像に近かった。大企業とうまく「連携」してみせるところなど、清廉潔癖そうな服装に隠した血みどろの下心を描写しているように思う。ヘスには夫婦で豪華にした収容所の所長であり続けるため保身をかけて、ハンガリーからのユダヤ人輸送計画をち密に計画した。これは負担だったのか胃酸の逆流を起こしたようだ。
彼が奥の奥の現在をのぞき込むのは「秘密の避難経路」の今ある状態だ。
なおもし執務室のラジオからヒトラーの熱狂的自己陶酔的な演説が流れたら映画の雰囲気はがらりと変わっていただろう。
関心と無関心
ヘス所長の仕事部屋のヒトラーの肖像が横顔をむけているのはちょっと不思議な気がした。彼の家庭は「選択的注意」によってえりわけられた家屋、調度品、壁紙からなる。東欧にしてはプールもついていて、どこかアメリカ的家屋にみえる。壁の向こうで起きていることは「選択的非注意」により注意関心から汲みだされる。そうはいっても音は入ってくるし灰も降ってくる。非注意を汲みだすのは大変だ。選択的注意という概念はアメリカの精神科医H.S.サリヴァンが提唱したものであり、現在は「フィルター説」が最も近い考え方かもしれない。フィルターといえばヘス夫人が紙巻きたばこを吸っているシーンがあった。自分でやっておいて僭越だが、この手の「Xという言動の意味はYである」類の解説は解釈の多様性をせばめ私には興ざめである。
悪の凡庸性
映画でも名前だけでてきたアイヒマン、かれの戦後裁判をアーレントがそう称したことで有名になった。アイヒマンは映画でも出てきたハンガリーからのユダヤ人輸送計画を敗戦後の処罰を恐れたヒムラーに抗って強行に主張し、ヘス所長はその主張にのって収容する立場からデータをもとに「輸送作戦」立案した。アイヒマンが「悪の凡庸さ」なのかどうか、私は以前から疑問である。戦時中から彼はユダヤ人の間では有名でかなり恐れられていたし戦後連合軍の裁きにあうことなく南米に渡航し隠蔽して生活を送っていたことをみると、とても平凡な軍人、平凡な官僚とみることは私にはできない。
作品比較
スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』を思わせるシーンもある。『シャイニング』はポーランドの音楽家ペンデレツキほかコワい音楽を効果的に使っていたのでそう思いやすい。『シャイニング』は公開当時の酷評ほか風雪にたえてきた。依然として私にとっては恐怖映画の不動の第一位である。
どこかの映画評みたら『関心領域』は「枠」にこだわりを見せたというものがあったが、雑誌Imago「映画の心理学」特集において「羊たちの沈黙」が映画内と映画そのものの枠に対して執拗ともいえるこだわりをみせた表現をみせたことを拙文にしたためたことが思い起こされ、『関心領域』は果たしてそうかと思った。また映画の枠全体をつかうのは文字を入れないにせよゴダール的だなぁとゴダールに免疫のある私は思った。

戦争は魅力的か?
中井久夫さんの著書(2005)を上野千鶴子さんが『戦争は魅力的か?』という短い文章で触れられている。これによると、戦時下で人は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたようにみえると中井は論じる。それは見かけであり、あくどい搾取や横領、残虐や迫害が横行するがそれらはつごうよく隠されると上野は指摘している。映画は「見かけ」をうまく描写している。それは一見演技的な「優雅な無関心」にみえるがもっと深みがある。
映画で描かれた人物たちの不自然な行動は、当時ドイツ各地でみられた「ユダヤ人がいなくなり、もぬけの殻になった家からの強奪行為」と五十歩歩百歩である。
日本における「都会から避難して来た人が持っている反物をお米と交換する」行為は都会の人には不公平だったようだ。
中井は平和時を対比して論じているが、戦争中でも敗戦色が濃くなった時に、人は自己中心的になり、私利私欲がむき出しになり(とくに上官か)、弛緩、空虚、目的喪失になる(これは兵士のことか)がある。また自己犠牲、欠乏、不平等をことさら美しく語ろうとする風潮もある。ドイツ第三帝国はゲルマン神話の美化、日本帝国は南北朝の南朝を神話化していた。皇居前にある楠木正成像。そう、足利尊氏が大河ドラマに出たのは戦後かなり経ってからである。中井も上野も指摘するように戦争が酸鼻きわまる行為であることは死者がもっとも経験することである。生存者が語るのをためらうのはそうした生存罪悪感もある。死者をして語らしめた本作は名作かもしれない。


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