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90秒で学ぶ!逆説の日本史1⃣古代黎明編(一章)

今回は「逆説の日本史」1⃣古代黎明編(著)井沢元彦(小学館文庫)
の第一章を90秒で紹介します。

第一章 古代日本列島人編

日本はどうして「倭」と呼ばれたのか

日本は紀元前後から7世紀頃まで、「倭」と呼ばれていました。
これは中国人が日本列島のことを呼んだものです。

では、なぜ中国人は日本のことを「倭」と呼んだのでしょうか。

先に結論を言えば、正確な事は分かりません。
なぜなら、その理由が書かれた史料が無いからです。
しかし、その理由について、とても興味深い考察があります。

それは、中国に赴いた、日本の使節が
「お前たちの国は何だ」あるいは「お前たちは誰だ」と聞かれ
我が国、我という意味で「わ」と答えたという説です。

そして、それを聞いた中国人が「わ」を「倭」に当て変えたということです。

中国人が「わ」を「倭」に当て変えた理由は、
中華思想に基づくものだと考えられます。

中華思想というのは、中国が世界の中心で、周辺国家は野蛮だという考えです。
元々、「倭」という漢字自体、「小さい、遠い」という意味で、決して良い意味では使われていません。

そのため、当時の中国人は「わ」を中華思想に基づいて、あまり良いイメージで使われていない「倭」に変えたということです。
これは、卑弥呼、奴国、邪馬台国など、すべてに共通していると考えられます。

ここまでをまとめると、
日本人が自らのことを「わ」と名乗った。
中国人が「わ」を中華思想に基づいて、「倭」に変換して、史料に書いたということになります。

では、なぜ日本人は、自らのこと、「わ」と答えたのでしょうか。

それは、当時の日本人は自らの集団、集落を「環」と呼んでいたことと関係があります。

実は、古代日本人が「わ」と発音していた言葉(大和言葉)は
「環」「輪」この二つしかありません。この二つはほぼ同じ意味です。
(それ以外の「わ」と発音できる言葉は外来語)

つまり、当時の日本人が「わ」と答えたのは、
自らの集落を「環」と呼んでいたからです。

では、「わ」が「環」であるならば、後になってなぜ「和」という字に変更されたのでしょうか。

それは、「倭」に気付いた日本人が、
「わ」の概念に当てはまる字に変更してくれと中国に頼んだ。
そして「わ」と同じような意味の漢字が「和」であったので、
この字が採用されたというものです。
(「わ」の概念とは、協調、親交、集落という意味。)

そして聖徳太子もこの「わ」の精神を引き継ぎます。
十七条憲法の第一条に「和を以て貴しとなす」と記載されています。
これは第二の仏教、第三の天皇よりも
「和」が第一優先されているということです。

つまり、「わ」の精神は古代から日本にあり、最も大切にされてきたものなのです。


まとめ

今回は「逆説の日本史」1⃣古代黎明編(著)井沢元彦(小学館文庫)
の第一章を90秒でまとめました。

興味があれば、ぜひ「逆説の日本史」(著)井沢元彦(小学館文庫)を読んでみてください。




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