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いつも11番目の選手

前回の投稿に続き、箱根駅伝関連の話をしたいと思う。

今年の箱根駅伝を見ていて特に感情移入したランナーがいた。青山学院大学の4年生、吉田祐也選手。

「いつも11番目の選手」

昨年、一昨年と、箱根を走る10人のメンバーに選ばれていたのに、いずれも当日のエントリー変更で走ることができなかった。最終学年となったこの1年、誰よりも地道な努力を続け、実績を積んできたという。そして、最初で最後の箱根で4区を走ることができた。結果はなんと、区間新記録。前年に東洋大学の相澤選手が出した記録を24秒も上回る大記録だった。

(吉田選手のエピソードは8分50秒~14分00秒)

この吉田選手の姿を見て、僕は涙が止まらなかった。いつも箱根駅伝からは多くの感動をもらうが、今回は特にだった。なぜなら、僕自身のこれまでの境遇と、彼のエピソードが重なったからだ。

「いつも11番目の選手」

この言葉を聞くと、色んな感情が込み上がってくる。

僕は、小学3年から高校3年までの10年間、野球に打ち込んだ。小学生の時は4年生からAチームのレギュラー、6年生の時にはキャプテンも務めた。しかし、中学・高校では、思うような結果を出すことができなかった。

中学の時、最後の大会の背番号は10番だった。野球は9つのポジション毎に背番号が決まっている。そのため、レギュラーメンバーは1番~9番。つまり10番は「補欠1番手」を意味する。体が小さかった僕は、非力で打球が遠くに飛ばず、生まれつき体格に恵まれたレギュラーメンバー達には到底敵わなかった。僕がどんなに真面目に練習をしようが、レギュラーメンバーがどんなに練習をサボろうが、その構図は変わらなかった。

高校野球生活は、平日はほぼ毎日練習。土日は練習試合。おまけに、進学校で勉強も忙しかったので、両立が大変だった。高校2年の秋まで、僕は一度も公式戦に出場することができなかったが、自分なりに真面目に練習に取り組んだ。その結果、高3春の大会で、初めてレギュラーに選ばれた。初めてもらった1桁の背番号。とても嬉しかった、そしてその背番号は、母がユニフォームに縫ってくれた。結果が出る出ないに関わらず、食事や洗濯などでずっとサポートし続けてくれた母に、少しばかり恩返しできたことも嬉しかった。そして、大会で活躍することができ、夏の大会でも無事に1桁の番号をもらうことができた。夏の大会のレギュラーは格別だ。学校のみんなが球場に来てくれるし、ブラスバンドの応援だってある。そんな中で自分が打って、走って、守っている姿を想像するだけで、わくわくが止まらなかった。


でも…


試合当日。スタメンの中に僕の名前はなかった。代わり出場したのは、まだ入学したばかりの1年生だった。そしてそのまま、僕の高校野球生活は終わってしまった。

「いつも11番目の選手」

レギュラー番号を付けながら、ベンチで後輩が活躍している姿を見るのは、なんとも言えない複雑な気持ちだった。あの時見ていた光景は、今も鮮明に覚えている。

「努力なんて、結局報われない」

中学、高校の経験から、そう思うようになった。


大学進学後は野球を辞め、教育を学びながら、旅や、ボランティアに明け暮れる日々を過ごした。毎日努力をしてもなかなか結果が出ない野球と比べ、その場に参加すれば、一瞬で、すぐに手応えのある結果が出る。そんな機会に溢れた毎日は本当に充実していた。何かを肌で感じ、人と出会い、対話し、議論し、繋がり、心がぐわーっと動く。そんな刺激だらけの日々に、いつの間にかのめり込んでいた。

よく「悩んだ時期があったら、その次には、必ず幸せな時期が訪れる」みたいな話を、自己啓発の世界で聞くけど、この時は本当にそうだと思った。「努力は、すぐ形に出ないかもしれないけど、いつか別の形で現れることもある」と思っていた。「今、僕が充実しているのは、中・高と、苦しい状況でも諦めないで努力してきたから」だって。「人生というフィールドでようやく逆転でたんだ」って。

だから、「みんなも努力しよう。今結果が出なくても、諦めずに頑張ろう!」なんてメッセージを、20代前半の僕は、ボランティアや旅で出会った人たちの前で、キラキラと偉そうに語っていた。


そんな僕は今年、28歳になった。楽しかった大学生活を終えてから、もうすぐ6年が経つ。

今の自分はというと、ここ2年くらい、ずっと壁にぶつかっていて、足踏みをしている状態だ。今までのやり方が通用しなくて、今持っている武器だけでは戦えないものが、目の前にはたくさんある。

鈴木塁人主将:なあなあにしていた部分が、いざ4年生になった時に、浮き彫りに出てきた

動画の中にある、青学キャプテンの言葉が、僕にも刺さる。

挨拶をする、時間を守る、場をきれいに保つ。人として、基本的なことを疎かにしない。1つひとつの仕事に丁寧に取り組む。なあなあにしていることが、今の僕には山ほどある。

目標を達成するための努力もできていない。

目標を具体的に描くこと、達成のためのプロセスを考えること、1日1日のタスクに分解すること。全部苦手だ。仮に、そこまでたどり着いても、実行ができない。実行ができたとしても、大体三日坊主で続かない。その度に、自信を失って動けなくなってしまう。この無限ループから、なかなか抜け出せない。

「あれ?僕は、努力することが得意だったはずじゃ?」

「中・高で、結果が出なくても努力し続けたから、大学で花が咲いたんじゃなかったの?」

気づいていた。僕は面倒くさがりだってことを。粘り強さが足りないということを。努力なんて、これまで多分本気でしたことがない。だからレギュラーになれなかった。それだけのことだ。充実していた大学生活は、努力して掴んだものではない。きっと、運が良かっただけだ。自分が得意なことの範囲の中に、たまたま身を置けた。それだけのことなのに、チヤホヤされた。いい部分、輝いている部分だけ切り取って、後輩の前でヘラヘラしていた自分が情けない。「アツいねー」「すごいねー」「輝いてるねー」そんな言葉の影でずっとごまかしてきた自分の弱さ。その弱さを隠すために、大学時代の輝きにしがみついて、自分と向き合うことから逃げてきた。それが、今頃になって全部出てきた。28歳にもなって、本当に恥ずかしい。

だけど、「変わりたい」と思える段階で気がつくことができたのは、まだ救いだったかもしれない。

吉田祐也選手:大学4年間で引退すると決めて、妥協なくやることが大事だと思った。クヨクヨせず、前を向いてやりました。睡眠から、食事から、私生活から、ストレッチから、何から何まで、人より取り組んできた。

僕も、いつか言ってみたい。

鈴木塁人主将:チームで1番練習してる。誰が見ても、あいつが1番努力してる。裕也がいたから頑張れた。練習に対する姿勢も含めて、青学の手本となる選手だった。
美穂さん:吉田祐也は、超努力家で、真面目で、それがやっと実った
原監督:すごいよお前!すごい!4年間努力した甲斐があった!
実況:10人しか走れない箱根駅伝。いつも11番目。涙を呑んできた。当たり前のことを、自分でできることを、コツコツ積み上げてきた。陸上競技10年間の集大成を見せたいと言っていた吉田。笑顔を見せました。陸上最後の作品が、この箱根駅伝。見事な走り、見事な記録になりそうだ。拳を突き上げて…区間新記録誕生!!

僕も、いつか言われてみたい。

こんなどうしようもない僕だけど、成長した姿を見て、涙を流してくれる誰かがいる。そんな光景を、自分の目で見てみたい。僕は自分の人生を諦めたくない。

吉田祐也選手。ありがとう。どこかで見ていてください。


吉田選手については、こちらもどうぞ。


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