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じいちゃんが亡くなった。悲しいけど、不幸せじゃない。

おれが物心ついてから亡くなった人の中でいちばん身近な人だった

じいちゃんは、3人の子どもと9人の孫と20人のひ孫に愛されていた

誰よりもずっと穏やかでひたすらに優しい人だった

農工具・左官工具をつくる職人で、14頭の乳牛を飼ったのち、牛舎を縫製工場にし、同時にお米を作っていた。器用で探究心の強い百姓の中の百姓だった。

おれが20歳を超えた頃、会うたびにおれらはハグして挨拶した。なかなか会えないじいちゃんと全身で挨拶したかった。

おれが生まれる少し前、じいちゃんは舌ガンを手術して、食べることと話すことに少しだけ苦労した。30年とちょっと、痛みとの戦いだった。

じいちゃんのベットの脇には必ずオロナミンCが置いてあって、いつも一本もらいに行っていた。

昼過ぎはじいちゃんのテレビタイム。じいちゃんにリモコンを渡すルールだった。じいちゃんと一緒に水戸黄門・遠山の金さん・のど自慢を観てた。

じいちゃんとばあちゃんは歌うことが大好きで、家にはカラオケシステムがあった。夏休みの遊びは、懐歌に偏っているカラオケが定番の遊びだった。

じいちゃんとばあちゃんは、近くの道の駅で酒まんじゅうを販売してた。早朝に起きた日には一緒に仕込みを手伝った。あんこを丸めるのを褒められるのが嬉しくてたまらなかった。

小さい頃はじいちゃん家の風呂はまだ薪で焚いていた。薪割りはじいちゃんの仕事で、いつか教わりたかった。

一度だけ竹細工を教えてって勇気を出して頼んだ。竹から箸を削り出すのを教えてくれた。もっと教わっておけばよかった。

親戚の魚屋のお兄さんのことを、いつもいい笑顔でいい商売人だ、と言っていた。商売人の哲学、もっと聞きたかった。

コロナ禍から久しぶりに会えたじいちゃん

いつもキレイにしていた髪はファンキーに長くて、ヒゲを生やし始めたおれを見て、お互いの変化を笑い合った。痩せた姿を見て泣きそうなのを必死に我慢した。奥さんを紹介できてよかったよ。帰り道、涙が溢れて車を停めた。

じいちゃんの余命を家族が知った時、おれはすぐ行くかすごく悩んだ。色々考えてお葬式とお通夜は断念した。そうして1週間経つと少し気持ちが落ち着いた。でもまだ実感がなかった。

そのあと、じいちゃんの居ない初めての訪問。奥さんの両親に車を出してもらった。親戚とも会うのが久しぶりだったから明るく振る舞っていたけど、今日の目的はじいちゃんとおれが向き合うこと。それを1番に理解していたおばちゃんがじいちゃんの最期を話してくれた。だんだんと実感が湧いて、ちゃんと泣けた。

みんなに見守られて悲しめた。みんなと同じ悲しみを共有できた。そして最後はイトコの子どもたちの話題で盛り上がった。

老いていくことと、成長していくことが共存してて、それをみんなで共有できる喜びを噛みしめた。

そんな今日を振り返って
おれはめちゃくちゃ寂しくて悲しいけど
不幸せじゃなかった。

じいちゃん、愛してるよ。

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