見出し画像

腕時計って昭和ですか?

愛用の腕時計が3本ある。その1本の電池が切れた。以前なら我が家から徒歩圏内にあったデパートの時計売り場に行ったものだが、そこが数年前に閉店してしまった。それで、プラス6~7分歩いたところにある商店街の時計屋さんに行く。2軒あるがどちらも店内は昭和のままで、タイムスリップしたような気分になるのがちょっと楽しい。

今回お願いしたほうの店は、私より少しお若いかなという年代の店主に聞いたら5代目だそうだ。店の奥で大きな振り子がカチカチと時を刻んでいる柱時計に近づいてみると18xx年とある。代々受け継がれた、まさに「大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計」だった。

あらためて店内を見回すと、陳列された商品(おそらく)もガラスケースに飾られたプリント写真も手書きの各種貼り紙も、ここ半世紀ほど触っていないのではなかろうか、という風情。申し訳ないが最後に商品が売れたのはいつだろうなどと余計な詮索もしてしまう。それでも、古くからご贔屓のお客さんはいるようで「なんとかやってます」と言って店主は笑った。そしてなにより、丁寧な仕事をしてくれた。

そうだよ、がんばってほしい。腕時計の電池交換ができる店がなくなったら困るじゃないか。

もっとも、最近の若い人は腕時計というものをするんだろうか?いまどき出先で時間が知りたければスマホを見ればいい。オフィス勤務ならたいてい壁には時計があるだろうし、テレワークしてたってパソコンの端っこにいつも時刻表示がある。かくいう私も、外出時に習慣で腕時計はつけるが、実際に時刻を見るかといえばほとんど見ないというのが正直なところだ。(いまどきは血圧とかが測れるバイタルウォッチなるものが流行らしいが、それはもう時計じゃないと私は思う)

もちろん、腕時計にはファッション性というのもある。私が今回電池交換したのは使用歴10年以上の白のBabyG。太めのバンドと大ぶりの文字盤の存在感が好きで、手首のアクセントとして愛用している。

つまりは時計というよりブレスレットとして使っているわけだ。

てことは、電池が切れても別にそのままでいいんじゃない?

しかししかし、それがまさに腕時計の不思議なところ。時計であるからには、たとえ時計として使っていなくても動いていてほしいのである。

父の形見の腕時計もそうだ。亡くなってから2年以上動き続けて、ついに電池が切れたとき、やっぱり私は電池を交換した。別に高級ブランドではなくフツーの時計。今はだれが身につけるわけでもない。でもやっぱり、動いていてほしいのである。

こういう感覚が昭和なのかどうかわからない。でも、こういう感覚を持つ人がいる限り、町の時計屋さんにはがんばって営業を続けてほしいと思う。

ちなみに先ごろ、高級腕時計を所有者から集めてレンタルするサービスが突然営業終了し、預けた時計が返ってこないという問題が起きて、その会社の代表者に逮捕状が出てるそうだ。こういうビジネスが成り立っていたということは、人から借りてまでロレックスを腕に巻きたい人がそれだけたくさんいるということだ。彼らは時刻を知りたいわけじゃない。所詮は他人のものだから愛着も思い入れもないだろう。

そんなふうに扱われるロレックスのほうにちょっと同情してしまうワタシであった。

一昨日の午後、ちょっと不思議な感じの空。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?