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大人になるって?~樋口直哉『大人ドロップ』を読み返して~

はじめに

 5月に入り、暑さが徐々に身にまとわりつくようになってきた。夏の暑さとか冬の寒さというのは、どちらも自分にとって季節の変わり目を実感できるもので好きなものだが、それと同時過去の記憶を呼び起こすキッカケでもある。季節の変わり目だけでなく、例えば食べ物の味とかシャンプーの匂いとか、そのまま記憶をショックのように思い出させるものはたくさんあるだろう。
 今年も例に漏れず、なんとなく暑さを感じるようになってきたのだが、今年まず真っ先に思い出したのは、中高生の頃読んだ一冊の物語である。普通に再読して感想を書いても、今の歳で感じることなんて想像するに容易いし、そもそも何回も読んだのであらすじもキャラクターもある程度覚えているしで、まるで良い文章が書ける気がしなかった。
 そこで考えた。もし昔の自分が考えてたことに対して、今の自分がコメントを入れるとしたらどうなるだろうか。確か瀬戸内寂聴が往復書簡形式で過去と今の自分が性について喋っている作品があったりしたが、あれよりもう少しフランクに会話したとしたらどうか。

 おそらく未来のおっさんが、過去の若者に盛大に説教をする最低な場面が書かれる可能性があるので、少し過去の自分には寛大な精神を持たせてキャラクターを書こうと、この段階から自分のことは棚に上げて思うのであった。
 というわけで、読書にまつわる対談式物語のはじまりはじまり。

都内某所、珈琲店にて

 珈琲店にて、というのは僕が好きな萩原朔太郎の短編だが、今回の舞台はフランスの夜のカフェではなく、都内の珈琲店である。珈琲店と書いて、フランス語で「カフェにて」と読ませているあの短編がすごく好きなのだ。今回はフランスの夜のカフェ(多分、夜はパブなんじゃないだろうかと思うが)で、酒を女と飲んでそのまま朝ベッドで一緒に目覚め、自分の肌の色の違いを感じでシラフになる話ではない。なんだったらバーでも良かったが、話し相手の自分が過去の未成年ということで、今日の舞台は飲酒のできるバーではなくカフェである。

  JRの駅を降りて、映画館を横目に大通りに向かって歩く。横断歩道を渡ってすぐのところ、大きく珈琲の文字が入った店の名前が見えてくる。店の前の立て看板には、文字の代わりに本と作者の名前が貼られている。

 樋口直哉の『大人ドロップ』、初めて読んだのは確か中学二年生。という事は、これから僕が話すのは中学二年生くらいの自分ということになる。中二、なんとも複雑な思いだ。大人になった今、掘り返してほしくない話がたくさんある、言わば“厨二”の時期、伊集院光はなんともキャッチーなスラングを生み出してくれたんだと、関係ない事を考えながらも、思い切って店の中に入ってみる。

 お店の奥のテーブル席に、その姿はあった。もう十数年前の自分の姿だ。向こうもこちらの姿を認め、勘づいたようだ。好奇心が隠せてない表情で、こちらの顔を窺っている。
「こんちは」
「あっ、こんにちは」
 その当時、歳上には必ず敬語を話すように気をつけていたので、とりあえず向こうもかしこまったような素振りを見せている。
「コーヒー、何も入れずに飲んでるの?まだ苦いし、苦手でしょ?」
「あ、やっぱり、バレてるんですね。」
「そらね。今は美味しく飲めるようになってるよ。」
 コーヒーは昔の自分と同じブラックを頼む。今日はコロンビアがオススメなのだそうだ。
「んじゃ、さっそくなんだけど」
 とりあえず本の話題に移ろうと試みる。
「『大人ドロップ』、買った時ってどんなだったっけ?」
「それは友達と本屋で見つけたやつですね。「俺らだけの名作を探そうぜ!」みたいなこと言いながら、とりあえお互い本屋で気になった本を買うみたいな、そんなことしてました。その時僕が買ったやつです。」
「あー、中学の時の親友でしょ?あの時、あいつ「奈須きのこは神!」とか言って空の境界ハマってなかった?」
「よく覚えてますね!そうですそうです、その本を買った時も、奈須きのこの本を紹介されましたもん。」
 なんとも中学生らしいが、その機会が無ければ、もしかしたら、今よりもう少し、本を読まない大人になっていたかもしれないなと考える。
「大人になっても、『大人ドロップ』って面白いと思いますか?」
「んー、どうだろう。」
 僕は少し考えて言葉を選ぶ。
「一言で言うと、まいったね。」
「どういうことですか?」
「その本、大人になった主人公が昔好きだった女の子との話を思い出して行く流れで物語が進むだろ?んで、最後の最後で、実は大人の自分は結婚していて、その相手は昔好きだった女の子の友達だってわかるでしょ?」
「あー、そうですね。」
 物語の序盤、主人公である“僕”は親友の“ハジメ"から、同級生の“入江さん”のことが気になっており、話をしてみたいと打ち明けられる。そこで夏休みに男2人とその憧れの入江さん、彼女と仲が良く、また主人公とも面識のある“ハル”を誘って遊びに行くことになる。
「これは小説全般に言えることなんだけど、ちゃんと自分の考えてることとか相手の話を聞く時にたくさん言葉を使うじゃない?昔はさ、例えば口で会話をする時なんか、言葉をできるだけ少なくした方がみんな面倒くさく思わないんだなと思ってたのよ。ちゃんと言葉を扱うのって難しいし、慣れてないと体力使うからね。大人になっても、そう感じることは多くてさ、仕事でも私生活でも「どうせみんな“ヤバい”“キモい”くらいしか表現しないし、できるならそうあって欲しいと無意識に願ってるのかも。」って思うわけ。」
「はあ。」
 一息入れるために、コーヒーを一口飲む。コーヒーは香りも味も、不思議と落ち着くから不思議だ。
「でもね、ある時からそれをやめようって思う時が来たんだよね。周りに合わせて喋るのをやめよう、面倒だと思われても良いから、ちゃんと言葉を扱わないとダメだって、考え直したよ。」
「友達とかから、めんどくさいヤツとか思われないんですか?」
「それをめんどくさいと思うくらいなら、友達でもなんでも無いって思えるようになるから安心しな。それに、大人の中じゃ友達が多い方だな。俺を理解してくれて、たまに叱咤激励し合う親友もちゃんと多めに何人かいる。」
「へぇ、そうなんですか、ちょっと意外です。」
 そう語る若かりし自分はどこかホッとしていて、嬉しそうだ。
「話を戻すと、大人ドロップの中に出てくる男女四人、みんなが言葉の扱い方がとても魅力的だよね。そんなモンだから、大人になった今読んでも、その4人がとても眩しく、羨ましい存在に映るんだ。」

「大人になったら泣かなくなるってずっと思っていたのに、どうしてみんな泣いてしまうのかな」

『大人ドロップ(小学館文庫)』樋口直哉

「俺は思い出を手に入れたってこと。それ以上、何も求めちゃいないし、何も望んじゃいないよ。そういう感情もあるんだな」

『大人ドロップ(小学館文庫)』樋口直哉

「ずっと前だけどハジメ君から屋上の鍵をもらったの。あなたがどんな景色を見てるのかなって思って。ねぇ、好きな人と同じ風景を見たいと思うのって平凡すぎるかしら」

『大人ドロップ(小学館文庫)』樋口直哉

「その方が、モテますかね?」
 なるほど、やはり中学生の関心は異性にモテるってことになるんだなと思いつつ、そこは絶妙にはぐらかしておく。
「モテってのは、とても複合的な話だと思うんだよね。今回の話からいうと、言葉巧みに、より多彩に、そして話し方なんかも交えて場面ごとにうまく使い分けられる人間は間違いなく一目置かれる。今から考えなくてもいいし、そもそもピンとこないでしょ?」
「実際、モテます?」
「聞かないほうがいいこともあるよー?」
 お互い若干聞いてもしょうもないと思いつつ、なぜかニヤニヤと聞こえてきそうな作り笑いをする。
「大人って、特に恋愛というか男女同士のことですけど、小説で読むみたいに、理性的な感じで会話するのかなと思ってるんですけど、どうですか?」
「例えば、クラスの男女が付き合ってるとするだろ?連絡があったなかったで揉めてたり、突然別れる乗り換えるで盛り上がってたりさ。それはどこか感情的だし、一方でどこか内向的で、みたいな。」
「それいっぱいありますね。ちょっとくだらないなと思ってますけど。」
「あれ、歳取っても変わらないからね。」
「えー、そうなんですか。なんかショックだな。」
「そう考えると、小説で読む恋愛って、高尚な理想だったんだなと実感してるね。」
もはや、小説の中で繰り広げられる恋愛劇に憧れる年齢でもなくなっているが、一方で登場人物たちの方が自分なんかよりも成熟していると感じることが多くなっているのも、また事実だ。
「大人になるって、どういうことだと思ってます?」
「んー、そうだねぇ。色んな考え方が出来るけど、結論から言うと、大人はいないね。この前JRが「大人になったらしたい事」っていうフレーズを使って、旅行をPRしてるのを見たら、ふとそう思ったよ。」
「どういことですか?」
 コーヒーはそろそろ飲み干して無くなる。会話の指標として、一杯のカップに入ったコーヒーはなかなかにちょうど良い。
「大人って、オバケとか神様みたいなものに近いと思うのよ。昔から親とかが使う目標とか怖いものみたいな。「そんなことじゃオトナになれません!」「オバケが出るよ!」みたいな使われ方するでしょ?」
「小さい頃にそう怒られますよね。」
「そうでしょ?そして歳を取ったら、オバケもカミサマも、ましてはオトナすらいなかったって気づくのよ。子供の時しか、見えない生き物みたいな感じかな。」
「神様、まだ信じないんですね。」
「「信仰心を、授かってないんです。」、ロバートラングドンは便利なセリフを使うもんだよ。」
「『天使と悪魔』ですか。」
「宗教の勧誘には、良い返しになるよ。」
 最後の一口を飲み干して、隣の自分の分までお代を払った。彼は。ありがとうございますと言いながら、座りながら頭を深く下げる。こういうところの礼儀は昔から重んじている。我ながら、少し感心してしまった。
 店を出た時、一緒に出てきたはずの若い自分の姿はもう無かった。なるほど、こういう別れ方になるのかと思った僕は、帰りの駅に向かうために歩き出す。
 次は、何の本を読み返そうか考えながら。


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