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奥行きを感じられる言葉を紡ぎたい

最近どこかで「言葉の奥行き」という表現を見た。
すごくいいなぁ、と思った。

これは別に広報とか発信に携わるものだから、とかじゃなく、
言葉を使う、何なら日本語を使う一人の人間として持っていたい感性だなと思ったからな気がする。

どういうところに「すごくいいなぁ」と思ったのか。
自分自身をちょっと探っていきたい。


まず前提の確認になるのだが、
「言葉」そのものに物理的に奥行きがあるわけじゃない。

何かのサイネージだったり、看板だったりでは場合によって文字が立体的になっていたりするがそういう話じゃない。

基本的に言葉というのは”目に見えない”

目には見えないんだけど、

「なんかこの人の言葉は薄っぺらいんだよな~」
「この人が言うこと、すごくわかりやすくて映像が見えてくるな」
「説得力ある言葉だな」

こういった感想を抱くことはないだろうか。
これが「言葉の奥行き」だと考える。


じゃあ、この言葉の奥行きの有無は何がもたらしているか。
難しい部分ではあるんだけど、自分が思うには、

「ストーリーが見えてくるか」

だと思っている。上で挙げたのでいうと「映像が見えてくるな」と近しい部分がある。


よく、言葉は「何を言うか」よりも「誰が言うか」みたいなフレーズを耳にすることがある。確かになぁ、と思う。

小さい頃の自分は「名言集」とか好きで良く読んでたけど、急にそれを自分が使うとどこか薄っぺらく感じてしまう節があった。やっぱりこれってストーリーの有無だと思っていて。

名言を発した方は、当初それが「名言」になるとは思っていない。日常の試行錯誤や気づきの結果、パッと出てきた言葉が結果的に実績に伴い「名言」へとなっていたんだと思う。

で、これを我々が名言と感じるのは”その人の試行錯誤の結果、生み出された言葉”という背景がわかるから。


名言に限った話じゃない。

何か考え方とかノウハウとか、なんなら「ありがとう」とか「好き」とか。そういった言葉にも奥行きを感じるものと感じられないものがあり、伝わり方は全然違う。

そこも、言葉の背景が感じられるかというところ、ポイントなんだろうなって。


発信する立場となったときはもう1つ大事な部分があると思っていて。

自分が発信する言葉の背景が感じられることは言わずもがな、届けたい人・届いた人がその発信を受けて「自分」をそこに当てはめられるか、ということも大事だと感じてる。

やっぱり”自分事”にできないと途端に言葉と距離が生まれてしまう。
自分をそのストーリーに重ね合わせられるか、似たようなストーリーが自分にもあるか。そうやって考えさせられるものが理想だ。


何はともあれ、言葉は発信すればいいんじゃなく、
そういった奥行きもイメージした発信を大切にしていきたい。

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