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死を想う建築

卒業設計に向けてテーマを模索しているうちに、自分にとっての建築像だったり建築でやりたいことだったりの解像度が高まってきました。ということで思考の整理がてらnoteを書いてみました。何かの参考になれば幸いです。


一年ほど前、母方の祖母と父方の祖父を亡くした。
祖母の死因は交通事故、祖父の死因は老衰だった。こうしてみるとその最期は対照的で、突然死ぬこともあれば徐々に死んでいくということもあるという言ってみれば当たり前のことを知り、その受け止め方も随分と違うことを身に染みて感じた。

死とは二人称的な概念だ。自分そのものではないし、かといって赤の他人でもない。それは焦点を合わせれば鮮明に見える時もあるし、目線を外せば意識の中からはいなくなってしまう。
一方で建築は三人称的なものだと思う。建築家が設計したとて、最終的には建築は自律し、運が良ければ設計者が死んだ後も残り続け、残留思念のように地球に佇むことになる。

この三人称的なあり方によって、建築は観る者の中にメッセージを残すのだと思う。実際は鑑賞者が勝手に建築と対峙しているだけなのだとは思うが、それはそれで良い。面白い誤読も生まれるというものだし、そこから新たな発明が生まれることもあると思う。

死に話を戻そう。建築の三人称的なあり方は死をメッセージとして残すこともできた。事実、かつての住居には仏間があったし、地域ぐるみで冠婚葬祭を執り行ったりもしていた。しかし、核家族化や単身世帯の増加、都市への若年層の流出といった現象によって地域共同体は解体され、それと同時に死という概念が建築から離れていってしまったように思う。
現代は死を覆い隠し、ひたすら生を搾取する時代であるのかもしれない。

そこで、もう一度死を建築に手繰り寄せてみようと思う。
死を考えることで対立する概念である生を考えることにつながる。それは「生を消費し死に向かう」ベクトルと、「やがてたどり着く終着点としての死から生の時間を逆算する」ベクトルを生み出す。前者は直線的なのかもしれないが、後者は幾重にもルートをマッピングできる。その補助としての建築を考えてみたい。

建築はシチュエーションによっていくらでもその見えを変える。
大勢で賑やかに過ごす時はおおらかに人を包み込むように見えるし、ひとりで物思いに耽りたい時にはそっと距離を置きながら見守ってくれるように見える。これも当人の思い込みと言ってしまえばそれまでだが、少なくとも建築にはそのように空間を演出する性質がある。この性質を用いて私は人々の様々な時間に寄り添いたいのだ。

そうした空間のムードを緩やかに繋いで様々な人の時間軸に沿った建築をひとつのかたちとして表現したい。私たちは消費される時間しか持っていないのではなく、未来を想い、遥か遠くのどこかへとつながる時間を持っている。それは具体的な土地かもしれないし、地球にはないあの世かもしれない。いずれにしても、過ごす時間の幅を豊かにしたい。死というものを退けるのではなく、そこに向き合う中で個々人に合った距離感を見つけ、生に漲る人生を送ってほしい。その中に生きる喜びが見つかると信じたい。そのような欲求に、建築はきっと応えられるはずだ。

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