大房岬(たいぶさみさき)に行って来ました!
6月8日、土曜日、東京都西部の街を出発し、宮田氏の運転する車に乗って、一路大房岬を目指す。大房岬というのは千葉の房総半島の南西部にある岬のことで、太平洋戦争中には連合軍の本土上陸に備えて海軍の重要拠点となっていた。今回は宮田氏の仕事で使う撮影に同行させてもらった(ちなみにだいぶさではなくたいぶさです。珍しい読み方だ)。
とはいってもいきなり渋滞である。宮田氏は前の週に一度行っていたのだが、そのときはここまで混んでいなかったそうだ。残念。こればかりは東京に住んでいる以上仕方のないことなのだろう。アクアラインを通って千葉に向かうはずが、なかなか進まない(みんな全員「千葉フォルニア」に行っているのだろう、という話をしていた。「千葉フォルニア」というのはカリフォルニアっぽく見える袖ケ浦市の道路のことである。ちなみに)。アクアラインの入り口すら一向に見えてこない。いろんな話をしたり、音楽を聴いたりしながらゆっくりと進む(くだらないジョークと……プラス、安楽死の是非について話していた。宮田氏がそのドキュメンタリーを最近観たせいだ)。
ようやく交通が流れ出したのが千葉に入ってからで、やはりスイスイ進むと気持ちが良い。海底トンネルを通ったのは(たぶん)生まれて初めてだと思うのだけれど、大した感慨もなかった。ただのトンネルだ。ゆっくりとしか進めないし……。高速を下りるとなんとなく見慣れた景色が現れる。千葉県にちゃんと来るのは(もしかして)初めてかもしれないのだけれど、道路沿いのコンビニとか、道の駅とか、田んぼとか、農業用ハウスとか……なんとなく僕が知っている田舎町の景色とそっくりに見えてくる。というか実際に同じなのだろう。この寂しさと、一種の退屈さと、ちょっとホッとする感じは、全国共通なのかもしれない。僕は宮城県の外れの街を思い出している……。そういう光景は一種の原風景として、僕の脳裏に刻まれている。良くも悪くも。
途中コンビニに寄ってトイレに行き、お昼を買った。そのままナビに従って大房岬へ。駐車場にさほど車はない。ちらほらあるけど、全然混んでいない。アクアラインを通って千葉にやって来た人たちは、別にここが目的地ではなかったみたいだ。きっとほかにもいろいろと魅力的な場所があるのだろう(千葉フォルニアとか)。まあいずれにせよ、ようやく着いた……。休憩込みで5時間もかかってしまった。さすがにお尻が痛いぜ……。それでもまあ渋滞に巻き込まれること自体久しぶりなので、これも良い経験と捉えて次に進むことにする。作家の良いところはあらゆる経験をストックしておけることである。いつかそれを使うときが来るかもしれない、と信じながら……。
とりあえず腹ごしらえをする。時刻は14時45分くらいだったと……思う。僕は韓国風冷麺を食べた。宮田氏はたしか普通の弁当を食べた。気温が高いので車の中で。栄養補給のために野菜スムージーも飲む。まあ美味しかった、と言えなくもない。あまりにも長く車の中にいたせいで、お腹が変な感じになっている(結局帰った翌日に盛大にお腹を壊す。まったく……)。とりあえず食事が終わると靴を履き替える。結果的にスニーカーでも良かったかな、と思ったけど、前に来たときにぬかるんでいるところがあったそうだ。そう、我々は(基本的には)遊びに来たわけではなく、宮田氏が特殊なカメラでデータを採取するために来たのだ。彼はそれを使って3D画像(あるいは地図)のサンプルを作る。雨靴に履き替えると、顔と腕に日焼け止めを塗り、全身に虫除けスプレーを噴射して、出発する。虫除けスプレーは持っていってよかったと実感した。なにしろ蚊がいっぱいいたから。
道は木々に囲まれて、空気が綺麗だ。鶯の鳴き声が聞こえる。バイクの走る音が聞こえるが、それはさほど大きくない。最初はアスファルトの道を歩く。なんとなく南国風の植物が生えている。まずは「ビジターセンター」というところで宮田氏が「撮影を始めます」という挨拶をする。そこで戦跡の一覧が載った簡単な地図をもらう。それ(と敷地の各所にある案内板)によればここに大砲が設置されたのはなんと幕末の頃らしい(正確な時期については諸説あり)。結構歴史があるんだなあ、と純粋に感心する。地図を見れば明らかだけど、海を挟んだ向かい側はペリーさんがやって来た浦賀である。なるほど。ここは首都東京(江戸)を護るかなり重要な地点だったんだ…。
もっともさらに本格的に軍によって要塞化されたのは1932年のことである。軍部が力を増していた頃。4年かけて完成したらしい。当時は外国の軍隊が船に乗って本土上陸を試みる、という想定がされていたみたいだ。結局終戦間際の頃には、飛行機であらゆる方向から敵軍が空襲を仕掛けるわけだが。
だから戦略的にはあまり役に立たなかったみたいだ。僕も細かい文献をきちんと読んだわけではないけれど、どうもそうらしい。もっとも砲台や、弾薬庫や、探照灯(サーチライト)を格納していた施設はいまだに生き延びている。浜辺の方には洞窟もある。ここには「回天10型」(人間が乗り込む魚雷)が配備されていたらしい(註:実際の配備は間に合わなかった可能性もある)。綺麗な海辺の景色が広がっていて、なかなか気持ちの良い場所なのだけれど、こうした戦争遺跡がいまだ残り続けている(弾薬庫なんかはいまだにきちんとした原型を留めている)。その辺の空気感のギャップがなかなか興味深かった。
第二探照燈掩灯壕に行く。ここが戦争遺跡としては、大房岬の中で最大のものである。これがこのまま残っているというのはなんだか不思議な気がした。宮田氏はライトを点けてカメラで撮影し、データを取っているので、僕は勝手に歩かせてもらう。
この場所においては、ほかに人もいず、なんだかすごく不思議な気分だった。時間の流れが変わったかのような。コンクリートの亀裂とか、穴とか、薄暗さとか、そういうものごとはたしかにちょっと不吉なんだけど、むしろ僕は植物たちに見守られてリラックスすることができたような気がする。80年ほど前、軍人たちは何を思ってここで働いていたのだろうな、と僕は想像する……。
その後第二展望台に行き、海を眺める。海は広くて、素敵だ。何艘かの船が見えた。
その後急な木の階段を下り、西側の海に出た。岩がゴツゴツしている。「弁財天の洞窟」というものがあって、宮田氏と中に入る。
くだらないジョーク。宮田氏:「ええここがご案内したい物件でして……」
僕:「間取りは?」
宮田氏:「ええ、20LDKくらいで」
僕:「ここだと……最寄り駅まで徒歩2時間くらいでしょうか?」
宮田氏:「でも泳げばすぐに東京に着きますよ……」
さて、だいぶ時間も経ってしまったので、上に戻ろうか……。でもこれがキツい。僕でもキツいんだから、普段あまり運動をしていない宮田氏は死にそうになっていた。僕は日々のランニングのおかげで、余裕とまでは言えないけれど、まあ下半身の鍛錬になるな、という感じだった。彼は心拍数が一気に上がって、結構苦しかったみたいだ。皆さんは心臓にはくれぐれも気をつけて。
大房岬には、今は「自然の家」や、ホテルなんかが立っている。プラス、キャンプ場としても整備してあって、夕暮れが近付く中、我々はそちらも散策した。カップルや、女性の二人組や、犬を連れた家族連れなんかが遊んでいた。奥の方の広場には小学生のグループ(プラス大人たち)がいて、何かのゲームをしていた。僕も小学生の頃の夏休みのキャンプを思い出す……。あれから20年か。早いなあ……。
最後に南側の浜辺に行く。そこには「回天10型」が配備されていたという洞窟がある(註:あとで調べてみると、このように潜水艦ではなく、地上の基地に配備された「基地回天隊」はほかにもあったのだが、結局は出撃せずに終戦を迎えたらしい。だからここにもし本当に配備されていたとしても、実際には出撃しなかったことになる。この近く、千葉県の小浜というところの基地には結局配備されなかったそうなので、ここももしかしたら予定しているうちに、終戦を迎えたのかもしれない。それならそれで良いことである。人が余計に死なずに済んだのだから。ちなみに訓練は山口県や、大分県でおこなわれていたらしい)。
回天を発射するためのレールは海の下にあって、今回はよく見えなかった。回天についてはドキュメンタリーも観たけれど、人の命を賭けて使われる割には命中率は高くなかったらしい。闇夜の中で、潜望鏡とジャイロスコープと、秒時計を頼りに敵に突っ込んでいかなくてはならない。当初は停泊中の艦船を狙っていたが、のちに航行中のものを狙うようになる。それによってさらに命中率は下がった(1944年11月から翌年の8月の終戦にかけて、87人が回天による出撃で亡くなった。15人が訓練中の事故で亡くなり、2人が基地への空襲で亡くなった。戦後に2人の搭乗員が自決したらしい。合計106人。それに加えて回天作戦に参加した潜水艦8隻が未帰還でその搭乗員は811人にもなるそうだ。一方アメリカ側の記録によれば、その間撃沈された艦船は3隻である。プラス、僕が調べたネット上の記事によれば、4隻に損傷を与えた。もっとも明らかにされていない情報も多いらしく、正確な戦果は分からない)。当初は脱出装置を設置する予定だったのだが——そのつもりで上層部も回天製造を許可した——戦局の悪化に間に合わず、脱出装置なしで出撃することになった。終戦までに420基が作られたが、機体そのものに問題が多く、故障で出撃できない場合も多かったらしい。当然訓練中の事故もたびたび起きた。たとえば黒木博司という軍人は(といっても亡くなったときまだ22歳だった)回天を発案した人の一人、ということになっているけれど、1944年9月の訓練中に、酸欠で亡くなった。どうやら波の高い日で、誤って海底に突き刺さってしまったらしい。水圧でハッチも開かず、仲間の捜索も実らずに、約10時間後に亡くなったらしい。もう一人、一緒に訓練していた兵隊も亡くなった(樋口孝大尉)。彼らは亡くなるまでの間に、冷静に報告書や遺書を書いていた。その間の気持ちはどんなだったろう、と想像する(けれど正確に想像し切ることはできそうにない)。自らの血で意見書まで書いて上層部に懇願した兵器がようやく完成しようというところで、そのまま死んでしまったのだ。敵艦にダメージを与えることもなく。もっともそのまま事故なく出撃していたとしても……ほとんど戦果が上がらずに亡くなった可能性の方が高い、ということを我々後世の人間は知っている。彼の熱意をもっと別の方向に向けることができなかったのだろうか? それはあまりにも都合の良い想像に過ぎないのだろうか?
いずれにせよ戦争が終わったあとでああだこうだ言うことは簡単である。その内部にいるときに、血気盛んな若い人たちに何が理解できただろう? 結局上層部はそのような理想を求める気持ちを——純粋な気持ちを——うまく利用したのだ、ということも言えそうではあるけれど……。
とにかく、戦跡を見るといろいろと考えさせられる。今さら何も状況は変わらないのだけれど、だからといってそのまま忘れ去っていいかというと……僕はそうは思わない。あそこにあった思考システムの罠みたいなものが、今でも存在している気がするからだ。我々は本当にまたあのような状況に至らないと確信することができるのだろうか……?
ちなみに黒木中尉と一緒に積極的に回天の創案に関わっていた仁科関夫中尉は、1944年11月20日に、殉職した黒木中尉の遺骨を抱いたまま米輸送艦「ミシシネワ」に特攻し、死亡した。ミシシネワは沈没し、最終的にアメリカ側には63人の戦死者が出たらしい。仁科中尉はそのとき21歳だった。
回天は一度出撃したら二度と戻れない兵器なのだが(気を失っても前傾姿勢になれば爆発するよう、操縦席に自爆装置が取り付けられていた)、故障も多く、そもそも出撃できないこともあったみたいだ。そのような状況で生き残った元回天搭乗員の方々の証言も観た。潜水艇の中で、自分は故障で出撃できず、一方で無事に出撃した仲間がいた。しかし明らかに敵艦にはぶつからず、予定の時間を過ぎたあとで、爆発音を聞いた。ボンと一度、そしてもう一度……。その潜水艦の艦長は「俺は若い者の命を無駄にした」と嘆いていたらしい。出撃できなかった方が考えていたのは、一人で元の場所に戻りたくない、ということだった。幸いほかにも故障した回天があり、複数人で戻ることができたのだが。
たくさんの回天搭乗員を見送った潜水艦の乗組員の方もいた。出撃直前の、特攻隊員たちの最後の言葉を何度も聞いたらしい。「お世話になりました」というのが一番多かったと彼は証言していた。そしていまだにその光景を思い出して涙を流すのだ……。特攻兵器はある一線を越えている。「どうせ死ぬのなら」という意識があったとしてもなお、越えるべきでない一線を越えたと思う。そしてそれに実際に乗り込むのは若い人々なのだ。そう思うとやるせない気持ちになる。何かほかに方法はなかったのだろうか? もし自分がその同じ時代に20代前半の若者だったとしたら……。いずれにせよまだまだ研究し、調べなくてはならないことが、ここにはあるような気がしている。少なくとも僕にとっては。
そしてまた……戻ってきた。池や、発電所跡や、汚水処理場を眺めながら。舗装されていない山道を通る。もう薄暗くなっている。駐車場に着いたときには二人とも汗だくだった。持ってきた服に着替える。いやいや、疲れましたよ。僕は……。それでもまあ離れた街に来て、知らなかった景色を見て、海の匂いを嗅いで……という経験はまあ悪くはなかったと思う。渋滞は懲りごりだけれど。
帰りの道路は行きよりは空いていた。だからまだマシだったと思う。途中海ほたるに寄った。たくさんのカップルや、家族連れなんかが来ていた。小さな女の子がミニドローンを夢中で飛ばしていた。そこでナメクジを見た。海ほたるのナメクジ……。
そして休憩込みで3時間。眠気でフラフラする頭を抱えながら帰ってきました(僕は助手席に座っていただけだけれど)。着いたときには夜10時くらいになっていた。いやはや。それでもまあ楽しかったといえば楽しかった。急な海辺の階段を上ったり、海ほたるでもエレベーターではなく階段を使ったりしていたので、一日で(僕のiPhoneによれば)12,000歩くらい歩いた。少しは自分を鍛えることができただろうか? まあ、あとは……文章を書くことに戻ります。それが必要だという気がしているので。大房岬は意外と穴場かもしれない。海は思っていたよりも——というかかなり——綺麗だったし、空気も良いです。弾薬庫も見られるしね。トンビが気持ち良さそうに飛んでいました。風に乗って、ほとんど羽ばたくこともせず、移動していた。まるで凧みたいだった。あれってどんな気分なんだろうな、と思いながら、僕は眠りに就きます。みなさん。さようなら。お元気で……。