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【小説】容器 (1)

 測量師のむらかずひこは仕事を辞めた。特に仕事内容に不満があったわけではない。給料は高くはなかったが、安定していたし、そのまま勤めていればいずれ昇給する見込みもあった。しかし同じ会社の上司たちについて考えたときに、こんなふうにはなりたくない、と感じていたことは事実だ。もっともそんな気持ちを表に出すことはなかった。彼は良くも悪くも、場の空気を乱したりはしない人間だったのだ。穏やかに、目立たないように、これまで生きてきた。だからどうしてTが大学時代に自分を友達にしようとしたのか、彼には長いこと理解できなかった。

 Tはエキセントリックな人間で、作家になりたがっていた。英文科に所属していたが、ほとんど授業には出てこないということだった。街を探検したり、アルバイトをしたり、街角で自作の曲を弾き語ったりして、過ごしていた。始めに彼らが会ったのは共通の友人を介してだった。その男は木村と同じ土木工学科に所属していて、Tと同じ倉庫でアルバイトをしていた。Tはすぐに飽きて辞めてしまったのだが――彼はありとあらゆるアルバイトをしては、すぐに辞めていた――交友はかろうじて続いていたらしい。大学の食堂で彼らが話しているときに、たまたま木村が通りかかった。そして紹介された。面白い男がいるという話は木村も聞いていたので、彼のことは知っていた。Tは短い坊主頭で、キラキラした目をしていた。まるで子どもがそのまま大きくなった、といったようにも見えた。落ち着きなくあたりを見回し、すごいスピードでチキンカレーを平らげていた。「おう、よろしく!」と彼は言った。

「ど、どうも」と木村は言った。そしてなぜか握手をした。


 その二週間後に、彼らは大学近くの公園で再会した。五月の夕暮れ時で、涼しい風が吹いていた。彼らは大学の三年生で、二人ともまだ二十歳はたちだった。木村はなんとなく散歩をしにそこに来ていた。高校生の集団や、犬の散歩をする人や、ランニングをする人たちなんかも来るが、街の喧騒から離れられるし、何よりも大学の外にいるのだという事実が彼をほっとさせてくれた。だからときどきここにやって来てはぼおっとして鳥の鳴き声を聞いたり、近くの川の音を聞いたり、あてもなく考え事をしたりするのだった。時折野良猫がやって来て頭を撫でさせてくれることがあった。そんなときにはいつもよりもちょっとだけ幸福な気分になって、彼は孤独なアパート暮らしに戻ることができる。

 その日もぼおっとしていた。ゆうが西の空で輝いていた。彼は自分の田舎の景色のことを思い出している。杉の木の間から、異様に大きく膨らんだ、オレンジ色の太陽が見える。それは平地のずっと奥に見えるかすんだ山脈の上に、そっと落ちていく。そこには何か哀しげな気配が確実にある。若い頃の彼は――より●●若い頃、という意味だが――その意味が理解できなかった。二十歳になった今もよく分からないままだったが、少なくとも似たような哀しみが自分の中にも存在している、ということだけはおぼろげに感じ取っていた。これから先に伸びる長い人生が、退屈なものになるだろうということを彼は本能的に知っている。単調な労働。結婚、子育て……。彼は自分がクリエイティブなタイプではないことを知っていたから、そのような想像に絶望していたわけではない。まあこんなもんだろうな、と正直思っていたくらいだったのだ。しかし……何かが足りないのではないか●●●●●●●●●●●●●、と彼は感じる。その夕陽を見ていた瞬間にだ。俺は本当に、このままこのルートを辿っていていいいのだろうか? どこかにほかの道もあるのではないか?

「何考えてんだよ?」と後ろから誰かが声をかけてきた。見るとTだった。短い髪の毛をポリポリと掻いていた。色のせたジーンズに、黒人のギターを持ったミュージシャンがプリントされた白いTシャツを着ていた(それはのちにロバート・ジョンソンであることが判明する。悪魔に魂を売った男……)。スニーカーは五、六年履いたまま一度も洗っていないんじゃないかという代物しろものだった。しかしそれらは完璧に彼の身に馴染んでいた。木村はふとうらやましいな、と思う。

「いや、大したことじゃないよ」と彼は言う。そして目で無意識に猫を探す。でも……今は、いない。

「ここ、座っていいか?」とTは彼の隣を指差した。

「もちろん」と木村は言った。そして少し脇に移動する。

「そのままでいいよ」とTは言った。そしてドスンと腰を下ろした。二人で夕陽を眺める。少し強い風が吹いてきた。小鳥が鳴いている。カラスが遠くの方で何かをあさっていた。ゴミだろうか、と木村は思う。あるいは何かの死骸かもしれない。

「こんなふうにぼおっとするのもまあ、悪くはないな。たまには、だけどな」とTは言った。

「僕はよくぼおっとしている。いつもね。なんにも考えないんだ。考えたとしても、大したことじゃない。自分の将来のこととかね」

「いや、それは大したことだよ」とTは木村の顔を見ながら言った。「どうすんだ? 大学を出たら?」

「まあ普通に就職すると思うね。研究者になりたいわけでもないし……自分で何かを生み出すこともできない。君の歌みたいにね。そんで……教師も嫌だ。だからあとは就職しか残らない。でもまあ……測量なんかがいいかなと思っている。測量士」

「測量士K」とそこで彼が言った。「いいな。君のイニシャルはどっちもKだから、完璧なKだ。実にカフカ的だ」

「どういうことなのか……僕には分からないんだが」

「カフカ読んだことないのか? フランツ・カフカだよ。ドイツ人のユダヤ人の小説家さ。本当は違ったかもしれないが……。まあいいや。とにかくさ、その作品に測量士Kが出てくる。あれは……そう『城』だ。しろ●●

「城で何かが起こるんだろうね、きっと」と木村は言う。

「いや、それがさ、測量士Kは城の測量を頼まれるんだが、いつまで経っても城に辿り着かないのさ。わけわかんない奴らばかり現れてね、それぞれの主張をべらべらと述べるんだよ。そんなこんなしているうちに……どうなるんだっけ? まあずいぶん前に読んだからな。でもさ、その〈測量士K〉っていう響きがさ、君にぴったりだよ。いいな。俺もそんな名前が欲しかった。どっかにないかな。俺にとってぴったりの名前……」

「自分の名前があるじゃないか」

「俺はこれ嫌いなんだ」と彼は顔をしかめて言った。「俺の両親にはネーミングセンスがないね。子供の頃からずっとそう思ってきた。そんでさ、いつも頭ん中でいろんな名前を考えていたんだよ。これだ、いやこれじゃない……って具合にさ。聞きたい?」

「まあ」と木村は言った。Tはいくつかの名前を列挙した。日本風のものも、外国風のものもあった。でも全部彼には似合っていなかった。木村はそう言った。


「そう認めざるを得ない」とTは悔しそうに言った。「まだ探っている最中なんだ。でもさ、赤ん坊の頃に与えられた名前がずっと付いてまわるってのもひどいもんだよな。苗字は変わる可能性があるが、下の名前は基本的には変わらない。これはおかしいと俺は思う。だって人間は刻一刻と変わっているんだぜ?」


「まあね」と木村は認めた。「でもさ、その測量士Kって結局どうなるの? 死ぬのかい? 絶望して?」


「いや……死ななかったと思うな。作品中ではね。たしかあれは未完なんだ。ミカン●●●じゃなくてね。未完●●。カフカはそういう男だったんだ。ほかに仕事も持っていたしね」


「どんな?」


「なんか半分民間の、半分役所みたいな……たしか保険かなんかの仕事だ。結構真面目だったらしいぜ。でも本人は小説家になりたかった。けど結核で四十代の始めで死んだ。俺の記憶が正しければ」


「君はいろんなことを知っているんだな」と木村は純粋に感心して言った。「僕は何も知らない。小説なんかほとんど読んだこともないよ」


「今度貸してやるよ。俺の部屋にいっぱいあるんだ。全国各地の図書館から借りて返してないものがいっぱいある。図書館警察なんてものがあったとしたらさ、俺は指名手配リストの第一位に挙げられていると思うね。でも大丈夫だ。今のところ逮捕されていないから」


「君は本当にこう……アクティブなんだよなあ。羨ましいよ、それってさ。いろんなところを旅行して回っている?」


「まあね」と彼は言った。「いろいろ行ったよ。今年の春休みはね、インドに行った。いやあ楽しかったな。土地の人たちと仲良くなってね。食中毒は酷かったけどな。まあ国内もいろいろ行ったよ。大体は高速バスだな。そんで九州にも行ったし、四国にも行った。去年の夏休みはママチャリで青森まで行ったよ。あれはなかなか疲れたね。実に」


「どうしてそんなにいろんなところに行くんだ?」


「どうしてって……それは俺にも分からない。俺の中の何かがね、そう命じるんだ。行け! ここから出ろ! ってね。そんでいても立ってもいられなくなって、旅行に行くのさ。そうじゃなくてもいろんなバイトを転々としたりね。なあ、いいか? 人間って結構面白いぜ? その辺のごく普通の人たちがさ、本当は普通じゃないんだ。聞けばいろんな話を聞かせてくれる。こっちが本当に興味を持っていたら、の話だけどな。そうすると本当に面白い話が出てくるんだ。俺はそれをほうほう、とかふむふむとかへえすごいですね、とか言いながら聞いている。そういう話のストックが俺の中にいっぱい溜まっているんだよ。実のところ」


「それをどうするんだ?」


「どうするって……ただの好奇心だ。いや、でもな、いつかもっと先に、分厚い本を書くかもしれない。小説でも、ノンフィクションでも、どっちでもいいんだが、とにかく俺にとっては重要な本だ。その中にさ、そのいろんな話たちが出てくるんじゃないかって俺は踏んでいる。ただの予想に過ぎないがな」


「じゃあ君は作家になりたいの?」


「まあなりたいという気持ちはあるね。でもさ、それはただの手段だ。目的は自由になることの中にある。いいか? ほとんどの人間は自由になることなんか求めてはいない。彼らは隷属していることが好きなんだよ。みんな自分自身から逃げ続けているじゃないか? 大人も、若者も、みんなだよ」


 そこで彼らは周囲を見回した。太陽が半分山に隠れていた。ランニングをしている若い男や、犬の散歩をしている老夫婦や、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしている買い物帰りの主婦の姿が見えた。首を回すと後ろの方には走り去っていく車の列が木々の間から見えた。カラスが飛んでいた。カラス●●●。猫の姿は見えなかった。どこに行っちゃったんだろう、と木村は思う。


「僕らは本当にみんな自分自身から逃げ続けているんだろうか」と木村は言った。


「俺の説によれば九十八パーセントまではそうだな」とTは言った。「実を言えば俺だってその一人だ。でもだからこそそういった弱さと闘わなければならないと思っているんだよ。そうだろ? 最初から完璧な人間なんてどこにもいない。いるのかもしれないが、俺は一度も見たことがない。だとしたら……トレーニングだ。鍛えるんだよ。自分自身を。そして自由になる。いつかね」


「自由になるってどういうことなんだろうね? つまり……会社勤めをしないということかな?」


「それもある。でも……それだけが大事じゃないんだ。むしろ気持ちだよ。大事なのはさ。きもち●●●。分かるかい?」


「よく分からない。想像すれば分かるかもしれないけれどね」


「君には分かるはずだ」とそこでTは言った。予想外に真剣な口調だった。「俺は初めて見たときにすぐに分かったよ。ピンと来たんだ。ああ、こいつは分かる奴だなってさ。いいか? 俺たちの大学でも、俺の言っていることを理解できる奴なんてほとんどいない。それは一般社会と同じ割合なんだよ。九十八パーセントは理解しない。君は二パーセントのうちの一人だな」


「でも僕には自由というのがどういうことなのか分からない。君みたいな行動力もないしね」


「想像するんだよ。それが大事なことだ。俺だって道なかばだ。というか踏み出したばっかりなんだ。分かるかい? 本当の自由の意味はね、たぶん自由になったときにしか分からない。俺に分かるのはさ、不自由が嫌だ、ということくらいだ。それと他人の言うことをさ、はいはいと聞くこともね。昔からそうだった。だから大学が嫌いなんだろうな」


「でも大学に通っている」


「いや、通ってはいないね。ほとんど。ノート借りてさ、テストのときに行くくらいだ。出席取られるやつはさ、まあ仕方なく行ったりはしているけどさ……。まあ両親を納得させて、とりあえず学費とか、仕送りをもらうためだよ。良心のしゃく? そんなものないね。だってあいつら結構金持ちだからさ。余っているんだよ。使い道も分からないんだ」


「何をやっているの? ご両親は?」


「老舗の菓子屋をやっている」と彼は顔をしかめて言った。「ひいじいちゃんの代から続いているんだよ。それを親父が継いだ。面白くない人生だ。伝統を引き継ぐ。そういえば聞こえはいいが挑戦することをおこたっているのさ。でもそれでも食っていける。俺はあそこから抜け出したくて仕方がなかったんだ」


「君はこの辺が地元なんだっけか?」


「まさか。俺んちは福井だよ。福井県」


「そうか」と木村は言った。そして福井県がどの辺にあるのか思い出そうとしたが、具体的な場所がどうしても分からなかった。北陸だったような気はしたのだが……。


「俺は昔からあの土地が好きじゃなかった。もちろん良いところもあるよ。海とか山とかな。風も素晴らしい。植物たちも。でも人間が作ったものとなると……そこには寂しいものが付きまとってくるんだよ。寂しくて、哀しいものだ。それがあらゆるものに影を落としている。俺はここから抜け出さなくちゃならないとずっと考えていたんだ。子供の頃から」


「それはたぶん僕の東北の実家にも付きまとっているよ」と木村は言った。「僕も同じことを考えていた。寂しくて、哀しくて……自分はこれ以上どこにも行けないという感じ。あれは街のせいなんだと考えていた……。でも都会に来ても似たような空気はどこにでもある……気がするね。だからあれは心の中にあるものだったのかもしれない。もしかしたら」


「それも一つの説だな」と彼は言った。「俺は自分の中の閉塞感を街のせいにしていたのかもしれんな……。まあでもさ、ごく客観的に言えばさ、なかなか悪くないところだよ。海も綺麗で、原発もある」


「そうだね」と木村は言った。「君の実家から見える夕陽も綺麗なんだろうね。きっと」


「ああ、綺麗だよ」とTは言った。「そしてとことん哀しい。今度俺んに来いよ。夏休みでもさ」


「行ってもいいのか?」


「もちろん、大歓迎だ。俺は長居はできないけどね。なにしろ両親といるとさ、胃がチクチクと痛んでくるんだ。そして逃げ出す」


「でも僕といても退屈かもしれないよ」


「いや、大丈夫だ。それは俺の本能が告げていることだ。君はさ、いわばさなぎみたいなものなんだ。俺と違ってさ、じっとしている期間が長い。俺は小学生の頃にはもう蝶々ちょうちょうになってさ、飛び回って……すでに疲れ始めている。なんてね。ハッハ。でもさ、本当にそんな感じがするんだよ。あと何年かかるか分かんないけどさ、君の一番大事な部分はさ、歳を取ったあとに花開くんだ。どうもそんな気がするね」


「どうもありがとう。そう言われるとさ、勇気付けられるよ。本当にね。でもさ、本当に正直に言えばね、自分が退屈な人生を送るような気がしてならないんだ。さほどの浮き沈みもなく、堅実に働いて、結婚して、子供ができて……そんな感じ。別にそれが悪いわけじゃないんだろうけどさ」


「大丈夫だ」とそこでTは確信を込めた顔で言った。「俺が保証する。君は長く眠っていたあとでさ、パッと目覚める。そして自由を目指すんだよ」


「何のために?」


「そりゃあ……自由を目指すためさ。さあ、俺はもう行くぜ。夜になっちまった」


「どっか行くのか? これから?」


「バーテンのバイトがある」とTは言った。「ジャズバーでね、ここから結構近いよ。お洒落しゃれな音楽を流していてね、自分はお洒落だと思い込んでいる客がやって来る。ハッハ。でもまあ面白いよ。そういう奴らを観察するのはね。長くは続かないと思うけど」


「いろいろやっているんだな」と感心して木村は言った。「僕はコンビニでバイトしている。アパートの近くのね。週に三回」


「それも面白そうだな……と思ったら前にちょっとやっていたな。すぐに辞めちゃったけど。夜勤でさ、一緒に入っているおじさんと殴り合いの喧嘩をしたんだ。ハッハ。あれもいい思い出だ」


 それから一ヶ月、二人は会わなかった。六月が来て、雨の日が続いた。木村はさほど雨が嫌いではなかった。どんよりと曇った空。落ちてくる雨粒。公園の紫陽花あじさいの花。そういったものたちは彼の心を優しく慰めてくれた。あるいは、と彼は思う。俺の中の空虚さが、この外の景色とマッチしているからなのかもしれないな。晴れているとき、彼の心はより締め付けられた。本来有効に生きるべきなのに、生きられていない自分自身が甲斐がいなく感じられたからだ。しかし雨の日は小休止だ。時間がいつもよりもゆっくりと流れていくような感覚が、そこにはあった。


 彼は大学に真面目に通い続けていた。一度も休まなかったし、遅刻さえしなかった。アルバイトも同様だった。真面目に働き、今では新人教育を任されていた。そんなとき、自分はもしかしてコミュニケーションを取ることが好きなのかもしれない、と思うことがあった。自分ではただの退屈な人間なのだと思い込んでいたが、緊張している大学一年生や、外国人留学生を見ると、とっさに彼らをリラックスさせてやりたいと感じるのだった。にっこりと笑って、何か安心させるような言葉をかけてやる。あるいは適当な冗談を言う。彼らは笑う。彼もまた少しだけ笑う。でもそんなとき、すぐにTのことが頭に浮かんでくる。あいつに比べれば、と彼は思う。俺なんて顔のない「その他大勢」みたいなものさ。彼はきっと作家として名を成すだろう。あるいは別の領域かもしれないが、とにかくあの行動力で何かを成し遂げるはずだ。でも俺は……。


 もっとも同じことを続け、与えられたシステムの内部で最善を尽くす、というのは彼の得意技だった。昔からあまり反抗心というものがない。同級生たちのうちには未成年のうちからタバコを吸い、アルコールを摂取して、髪の毛を奇抜な色に染めたりする者がたくさんいたが、彼はまったくそういったものごとに興味が持てなかった。彼らはむしろ反抗することによって似たような顔になっていくような気が、彼にはしていた。あいつらは別に強いわけじゃないんだ、と彼は思っている。誰かに弱いとか、真面目とか、ダサいとか言われるのを恐れているだけなんだ。本当に強かったら……そう、Tのように、誰に何と言われようと自分の道を突き進むだろう。まわりをキョロキョロ見回したりせずに、だ。


 それでもなお、自分が目標を欠いていることを彼はよく知っていた。俺がシステムに――用意された社会的システムに――従順なのは、特にそれ以外にやることが思い浮かばないからにほかならない。もし本当に熱意というものがあれば、俺はそちらの方向に突き進んでいくだろう。たとえば……そう、作家になるとか。ミュージシャンになるとか。画家になるとか。でも彼はそのどれも自分にできるとは思わなかった。彼の父親は市の職員で、母親は看護師だった。きちんと働いて、まともな人生を生きてきた人々だ。無意識にその背中を見ているうちに、自分も似たような人生を生きるのだろうな、と彼は観念していた。というかほかにどんな道があるんだ? この俺に?


 雨の日の午後、キャンパスを移動しているときに、Tが木村を見つけた。「おう! 測量士K! やっと見つけたぜ」


「久しぶりだね」と木村は言った。「大学に来るのは珍しいんじゃない?」


「まあな」と彼は言った。「でもたまには来るさ。俺だってね。あのさ、今からちょっと外に出ないか? 行きたいところがあるからさ」


「でも授業が……」と木村は言った。でもそのときTの目を見て、ここは授業なんかほったらかして、彼と一緒に行った方がいいだろう、と思った。彼の目が生命力に満ちていたからだ。「分かったよ。行くよ。でもどこに?」


「それは行ってからのお楽しみだ」と彼はニヤリと笑いながら言った。


 雨の中を傘を差しながら彼らは歩いていった。途中でバスに乗り、街中で降りた。バスの中ではTは一言もしゃべらなかった。だから木村もまた黙っていた。ほかの乗客たちは皆人生に疲れているように見えた。綺麗な格好をした年配の女性。小学生の女の子。一番前の席にいる杖を持った太った男。窓の外の景色は灰色で、あらゆる喜びから切り離されているように見えた。もっともこれが普通の状態なのかもしれない、と木村は思う。俺はきっと、頭の中で人生に大きなものを期待し過ぎなのだろう。そんなものはそもそも存在しないのだ。きっと。


 降りたあとも少し歩いた。大きな駅の近くで、サラリーマンや、外国人や、若者のグループなど、様々な人々が歩いていた。Tはあるビルの地下一階にある喫茶店に入った。チェーンの店だ。木村は一度もここに来たことはない。彼は黙ってあとを付いていった。ドアを開けて二人が入ると、「いらっしゃいませ」と元気なアルバイトの女の子の声が聞こえてきた。彼は奥の席を指差した。二人はそのままそちらに移動する。


 一人の女性がそこにいた。まだ若い女性だ。髪の毛が長く、黒く、スラッとした体型をしていた。うっすらと化粧をしていたが、さほど馴染んでいるわけではなかった(そんなものしない方がいいのに、と木村は思った)。白いブラウスに、黒いカーディガンを羽織はおっていた。目を落として、カバーの付いた文庫本を一心不乱に読んでいた。Tのガールフレンドだろうか、と木村は思う。彼らは彼女の向かいの席に座った。


「よおよお。悪いな遅くなっちまって」とTは彼女に向かって言った。


 彼女は目も上げずに言った。「別に」と。


「俺の友達の測量士Kだ。彼は城に向かう途中で道に迷っていたんだよ。だから俺が連れてきた。ほら、俺の妹だ。名前は……なんて言ったかな。忘れちまった」


「どうも」と木村は頭を下げた。


「どうも」とチラッとだけ目を上げて彼女は言った。「本当に妹の名前忘れたの?」


「ハハハ。冗談だよ。もちろん。――という。なんか変な名前だよな。うちの両親ときたら」


「変じゃないですよ」と木村は言った。そして意味もなく赤面する。


「どうもありがとう」と彼女は本を見つめながら言った。


 Tはコーヒーを三つと、パフェを三つ頼んだ。「俺が払うからさ。ぜひ食べてくれよ。絶品なんだから」と彼は言った。


 基本的にTがペラペラとしゃべっていた。妹の方はあまり口を利かなかったが、少なくとも木村がいることを迷惑だとは感じていないらしかった。最初の方に「本当に測量士なんですか?」と彼女は訊いた。


「まさか。測量会社もいいかなと言っただけですよ。そしたら変なあだ名を付けられてしまって」


「ハハハ。いいだろう? でも。彼にはぴったりだ。普通の男っぽいが、本当は普通じゃない。それがカフカ的だ。実にカフカ的だ。お前もあれ読んだだろう?」


「たぶん」と彼女は言った。


「たぶん、だって。いいね。彼女はさ、この隣町の大学に通っているんだよ。ハッハ。とはいってもこっちで会うのは久しぶりだけどね。だって会ったってろくに口を利かないんだからさ。俺よりもすごい読書家でね、もう世界中のありとあらゆる本を読破している。読んでいないのはさ、アンデス文明のいくつかの本だけさ。あれは誰にも解読できないんだけどな」


「アンデス文明は文字を持たなかった。適当なこと言わないでよね」と彼女は言う。


「じゃあ文学部なんですか? 兄妹きょうだい二人とも?」と木村は訊いた。


「いや、何て言ったかな。なんとか学部だ」とT。


「国際関係学部」と彼女は言った。「誰かに何かを読めって言われるのが嫌いなんです。特に小説に関しては。たぶん文学部に入ったら、レポートとか書くために、自分の嫌いなものも読まなくちゃならないでしょう? それが嫌だったんです。だから関係ない学部に入ったの」


「そうか」と木村は言った。「それで、その……お兄さんは昔からこんな感じだったのかな? つまりエキセントリックというか」


「まあそうですね」と彼女は言った。「もう自分勝手というか、自分のやりたいことだけをやるというか……。もう両親は諦めていますね。小学生の頃三日くらい行方不明になったんです。両親とか、近所の人とか、みんなで探したんですけど、見つからなかった。用水路に落ちて死んだんじゃないかと思われていました。でも三日後に泥だらけになって帰ってきたんです。魚を持ってね」


「山で暮らしていたんだよ」とTは恥ずかしそうに言った。「あれが小四のときだ。そういうドキュメンタリーを観てさ、やりたくなったんだ。そんで、やった。ハッハ。めちゃめちゃ腹減ったけどな。二匹釣ってさ、一匹は焼いて食べた。もう一匹は自慢するために持って帰ったんだ」


「すごい」と木村は言う。


「歩いて京都まで行ったりとかね。あれは中学生のときだったかな」


「中一だよ。たしか」と彼は懐かしそうに言った。


「運動神経はいいのに、練習に耐えられなくてすぐに辞めちゃうの。ラグビーも、野球も、サッカーも」


「いやいや、参ったね」と彼は言って、坊主頭を掻いた。


「昔から独特だったんだね」と木村は言った。


 そのあとで巨大なパフェが三つ運ばれてきて、三人は黙々とそれを食べた。一番先に食べ終えたのがTで、最近会った面白いおじさんの話をしていた。警備員のバイトで会ったそうだ。その人は学生運動を体験していて、面白いエピソードを無数に持っていた。火炎瓶の作り方。ほかのグループの学生に暴行を受けたこと。逮捕されたこと。マリファナを吸ったこと。エトセトラ、エトセトラ。


「でもさ、その人そのあと普通に会社員になってさ、世界中飛び回っていたらしいぜ。エジプトとか、コンゴとかさ」


「ふうん」と甘ったるいクリームを舐めながら木村は言う。「それはこう……精神的にはどうだったんだろうね? 別に会社勤めが悪というわけではないだろうけど……」


「時代が変わったんだって彼は言っていたな。もう反抗の時代じゃなかったんだとさ。彼、別に金に困っていないんだよ。ただ退職して、暇で仕方ないから警備のバイトやっているだけ。若い奴らと話せるのがいいんだってさ。まったく。大したじいさんだぜ」


「昔と比べて今はつまらないと思う?」と木村は訊いた。「あの時代の人たちの方がカラフルなエピソードを持っているような気が、僕にはするね。なんとなくだけど」


「それは気のせいだよ」とTは言った。「いつの時代もそうなんだ。昔は良かったってね。でもそんなのは嘘だと俺は思っている。みんな今と向き合うのが怖いのさ。だからそんなことを言うんだよ。大事なのは今ここをどう生きるかだ。というかさ、たぶん何歳になったって〈今ここ〉しか生きられないんだよ。そして死ぬ。そのうちね」


「たぶん頭では分かっているんだけどね。具体的に何をするべきなのか、という話になると……よく分からない」


「ハッハ。そんなのはね。そのとき思い付いたことをやるしかない。だってそれしかないじゃないか? それ以外にどうすればいいんだ?」


「まあね」と木村は言う。「たしかに言われてみればそうだけど」


「みんながお兄ちゃんみたいに衝動的じゃないんだよ」とそこで彼女が言った。彼女のパフェはまだ半分以上残っていた。「みんなもっと考えてから行動するわけ。分かる?」


「考えて考えて……そんで、クソつまんねえ無難なことをやるんだろ? そんなの言われなくたって分かっている。でもさ、俺はそういう生き方を取りたくないんだ。それはこいつも一緒だと俺は思っている」


「どうかな?」と笑いながら木村は言った。


「今に分かるさ」とTは言った。そして結局は妹の残りのパフェをもらって、あっという間に平らげてしまった。


 彼がなぜ妹との会合に自分を招いたのか木村には分からなかった。それで別れたあとに、そのことについて訊ねた。


「そんなのお前らがお似合いだと思ったからに決まっているじゃないか」とTは言った。「あの子はね、強がっているけど、本当は孤独なんだよ。あんまり友達もいない。一人も●●●いないってわけじゃないと思うけどね。いつも本ばっかり読んでいるから、知らぬ間に孤立してしまう。両親がそれで心配してさ、俺にちょっと会って様子を見てくれって言ってきたのさ。彼女は今日たまたま午後空いていたからこっちに呼んだ。そんでさ、ああ、君も連れていった方が場が盛り上がるなと思ったわけだよ。実に、ね」


「あんなのでよかったのかな」と木村は言う。


「いいんだよ。嬉しそうにしてたぜ。一言もしゃべらないこともあるんだからさ」


「そうか」と少しだけ安心して木村は言った。「でもまあ……たしかに独特な子だね。君も独特だが……それとは方向が違っている。彼女は将来何をするつもりなんだろう?」


「さあね」と彼は言った。「訊いても答えてくれないんだ。ただ一般企業に向かないことだけはたしかだな。俺はちょっと心配なんだよ。君が一緒になって養ってくれればいいんだけどな」


「別に付き合うなんて一言も言っていないよ。こっちも、あっちもね」


「まあまあそう照れるなって」


「でも彼女が嫌だと言うのに僕に無理に会わせようとするのはやめてほしいね。そういうのは……僕の好みじゃない」


「オーケー。もし彼女が嫌と言ったら、ということだな。そんときは無理いしないよ。別に二人とももう成人しているからな。ああ、彼女はまだ十九か。いずれにせよ兄貴が関与する問題でもない。ハッハ。ということでさ、この辺ちょっと探検しようぜ。結構面白い店が並んでいるんだよ」


「まあ今から戻っても講義には間に合わないからね。一緒に行くよ」


「そう来なくっちゃ」


 二人はTの知っている奇妙な店を回った。怪しげな雑貨屋、古本屋、謎の資料館(死刑に使われた世界各国の道具が展示されていた)、ネパール料理屋、廃墟となった家、住宅街の隅にある個人経営の喫茶店。そこでコーヒーを飲みながら、彼らは人生について話をした。しかしどれだけ話しても、何かが解決する、という状態には至らなかった。コーヒー代はTが払ってくれた。


「ここのマスターもさ、すげえ面白い人生を生きているんだ。サラリーマン時代の話。精神的に病んで入院していたときの話。この人ビルの五階から飛び降りて生きていたんだぜ? まったくな。あとは生きようと決意したときの話。アメリカを一人旅したときの話。もっとあるぜ」


「君は聞き上手なんだ」


「というかさ、本当に興味があるんだよ。それだけ。興味ないときはすぐに去る」


「しかしだからこそどうして僕といるのかよく分からないな」


「だから言っただろ? 測量士K。普通っぽい奴が一番病んでいるんだ。君はその代表さ」


「代表は何をすればいいんだろうね?」


「そりゃ城に行って測量をするのさ。それが目的だからな。さあそろそろ帰ろうかな」


「そうしよう」


 もっともTは突然何かを思いついて別の友人のところに行ってしまったので、帰りは木村一人だった。それでも正直なところ「ほっとした」という気持ちの方が強かった。今日はいろいろあった。数日分の活動を一日に詰め込んだみたいな気分だった。あいつは毎日こんな風に動き回っているんだろうな、と彼は思う。俺はたぶん疲れ切ってしまうだろう。あいつにはたしかに天性のバイタリティーのようなものがあるが、その発散の仕方があまりにも支離滅裂であるように、自分には感じられる。俺が真似できないのは……そう、方向が●●●大事だと考えているからだ。本当の意味で正しい方向を見定めたときだけ、人間は不毛さから脱却できるのではないか? もっとも俺には「方向」どころか、自分が何を求めているのかさえ分かってはいないのだが……。



 Tはまた消えてしまった。木村は同じように、単調な毎日を生き続けていた。日付が変わってもやっていることはほとんど変わらない。教授も学生たちも、Tに比べればけているように感じられた。時間がもったいない、とときどき彼は思う。人生はこんなふうに使うべきではないのだ。もっとも講義室を飛び出したところで、一人だけでは何をしたらいいのか分からない。それは残念ながら事実だった。彼は諦めて意識を集中し、ノートを取る。


 プラス、あれ以降どうしても髪の長い、痩せた女子学生を見ると、ついあの妹を思い出してしまうことになった。ほとんど笑わない、あらゆる本を読んでいる女の子。周囲に馴染めず、孤独に生きている……らしい。目を伏せたときに、表情にさっと影が差し込んだ。彼はそれをよく覚えていた。美しいとさえ思った。俺はもしかして恋をしているのだろうか、と彼は思う。でもよく分からなかった。だからいつも通り図書館に行って、試験のための勉強をした。


 夏休みに入る少し前に連絡が来て、福井に来いよ、と言われた。木村は電話越しに言う。「それでさ、君は今どこにいるんだ? 試験は受けたのか?」


「受けたよ。ちゃんとね」と彼は言った。「今回もバッチリだな。もうノート借りまくってさ、ハッハ。一夜漬けだ。レポートも出した。多少妹に書いてもらったがね。これこれこういうテーマでさ、って。あいつそういうの得意なんだ。もちろんタダじゃない。俺はバイトで稼いだ金を、こういうところに使うのさ。ハッハ。だから大丈夫だ。大丈夫じゃなくても大丈夫だ。たかが大学だからさ」


「それで……」


「そうそう。この前約束したことだよ。いつがいい? お盆だな。そう。お盆の時期にしよう。君も実家に帰るのか? でもまあいいじゃないか。ちょっと寄って行けって。俺もそんとき帰るからさ」


「もちろん君がいないと話にならないよ」と木村は焦って言った。「僕一人だけ君の実家に行ったって何をしたらいいか分からないじゃないか」


「大丈夫だ。妹も帰っているからさ。ハッハ。まあ俺たちはさ、敷地の外れにあるじいちゃんに泊まろうぜ。その方が騒いでいたって迷惑にならない。じいちゃんは施設に入っちゃってね。その家が空いているのさ。ばあちゃんは死んじゃったしな」


「それはいいけど……」


「そうそう。俺がどこにいるのかって? ハッハ。言ったらきっとびっくりするよ。いいか? 驚くなよ……」


 そこで電話が切れた。彼がどこにいるのかは分からなかったにせよ、実家に戻る前に福井に行くことになりそうだった。木村はネットで福井への行き方を検索してみたが、結局一番安いのは高速バスということになりそうだった。東京から東北に帰るときも高速バスには乗っていたから、まあ慣れているといえば慣れている。お尻の痛みを緩和するために、クッションを持っていく必要があるだろうな、と彼は思う。


 試験は無事終わった。休まず大学に通って――Tに誘われて喫茶店に行ったとき以外一度も休んでいない――真面目にノートを取っていたのだから、パスするのはさほど難しくなかった。面倒なレポートをいくつか提出する必要があったが、なんとかそれを終え、臨時のアルバイトをこなしたあとで――十日ほど休む代わりにほかの人の穴を埋めたのだ――新宿発の高速バスに乗った。周囲には似たようにスーツケースを持った若い人たちがたくさんいた。外国人観光客も多かった。深夜の出発だったので、時間を潰すためにその辺をぶらぶら散歩していた(荷物はロッカーに預けておいた)。夏の夜の街は賑やかで、香水の匂いやら、汗の臭いやら、タバコの匂いやら、排気ガスの臭いやらで、カオスを形成していた。ネオンサインが輝き、デパートの照明が輝き、人々の持つ携帯電話が輝き、タクシーのヘッドライトが輝いていた。人種も様々だった。白人もいれば、黒人もいれば、東南アジアの人々もいた。中東系。アフリカ系。あとは中国人と韓国人。


 そのような普段見ることのない光景に圧倒されながらも、木村は早く自分だけの世界に閉じこもりたいと考えていた。彼は遊び回ったり、騒ぎ回ったりすることがあまり好きではない。周囲が賑やかだと、自分だけが取り残されたような気持ちになることがよくあった。まるで一人だけ肉体を離れて、一つの透明な視点になったかのような気分だった。みんなはそこにいる。でも俺一人だけが外側からそれを見ている。俺はいつも場違いで、部外者だ。何をしていてもしっくりこない。ただTといるときだけは、なぜか生き生きとした目で、この世を眺めることができる。それはもちろんあいつの視点を借りているからだ。本当に少年みたいで、純粋な目。あいつがいないと、俺は世界に興味を持つこともできないのだろうか、と彼は思う。


 もっとも本来の性格が急に変わるわけもなく、彼は疎外感を抱いたままバス乗り場に帰ってきた。出発の十五分前にバスが止まり、乗客たちが一列に並んだ。バスの運転手が名簿を見ながら乗り込む人々の名前を確認していた。木村はそこでスーツケースを預け、大きなバスに乗り込んだ。


 隣に座ったのはありがたいことに、同じくらいの歳の学生風の男だった。もし女性だったらどうしようと思っていたのだ。彼は後ろの席の人に声をかけて、シートを倒した。光が入ってこないように、カーテンは事前に下ろされていた。運転手が乗り込み、やがてバスは出発した。様々な注意事項が説明される。それを聞きながら、彼はすでにうとうとし始めていた。これから知らない土地に行くのだというわくわくした気持ちと、いったいTの家でどう過ごせばいいのか、という不安とがないまぜになって、彼の中では渦を巻いていた。でもその渦の中心にちらりとあの妹の姿が見え、すぐに消えた。あとは波の音。風。空を飛ぶ鳥のイメージが続いた。はっと目を覚ますと、すでに第一の休憩所のパーキングだった。彼は降り、トイレに行った。身体を伸ばした。蒸し暑い、真夏の夜だった。そしてふと、俺はいつか、もっと歳を取ったときに、この旅行のことを鮮明に思い出すことになるだろうな、と思った。そしてそれは事実となった。


 福井駅に着いたのが朝の六時半だった。彼はまなこをこすりながら外へ出て、スーツケースを受け取った。太陽はすでに昇っていた。初めて来た場所なのに、なぜか少し懐かしいような感じがした。彼は近くのコンビニに行って、飲み物を買った。そのあと外のベンチに座って、それを飲んだ。もし約束通り事が進めば、T が迎えに来てくれるはずだったのだが……。


 しばらく待っていたあとで、電話がかかってきた。「もしもし」と木村は言う。


「もしもし!」とTは言った。「いや、ちょこっと寝坊しちまってね。悪かった。今猛スピードで向かっている」


「誰の車なの?」


「母親のだ。大丈夫だ。俺はさ、結構運転上手うまいから。東京でもあちこち運転してたくらいなんだからさ」


 大丈夫だろうか、と木村は思う(もっとも心配したところでTの暴走を止められっこないことは分かってはいたのだが)。事故を起こしたりしなければいいのだが……。


 やがてロータリーに一台の軽自動車がやって来た。あれかな、と見当を付けていると、案の定電話がかかってきた。「ほら、何してるんだよ! 早く来いよ」


 木村はそちらに向かう。Tが助手席の窓を下ろし、ニヤリと笑う。「久しぶりだな。ハッハ。寝不足の顔してるぜ」


「お尻が痛くてね」と木村は言った。「でも比較的眠れた方だと思うよ」


「そうこなくっちゃな。ほら、荷物後ろに載せなよ」


 木村はスーツケースを後部座席に置いた。そして自分は助手席に乗った。


「いやいや、ようこそ。いやいや」とTは言った。「まさか君がこんなところに来るなんてな。ハッハ」


「何がそんなにおかしいんだか」


「いや、嬉しいんだよ。俺はさ。今まで東京の友達を呼んだことなんて一度もないんだ。だって福井だぜ? ハッハ。どうする? ああ、そうだ。とう尋坊じんぼうに行こう。あそこに行かなくちゃな。そんでさ、一緒に飛び降りよう! ハッハ。大丈夫だよ。嘘だから。いやあ君が来るなんてな」


「妹さんは帰っているの?」


「ああ、いるよ。数日前にね、帰ってきた。でもさ、彼女は……うん。まあ、なんとなくな、ちょっと落ち込んでいるんだよ。というかそういう時期なのかな。人生の。つまりは……。いや、俺には分からんね。きっと東京に馴染めないんだろう。かといってこっちにも馴染めないだろうね。あいつはさ。宇宙人みたいなやつだから」


「それは君のことじゃなくて?」


「俺?」と言ってTは木村の顔をじっと見た。「俺か? まあたしかに俺も宇宙人みたいなもんだよな。ときどき思うんだよ。火星人が脳に寄生しているんじゃないかってさ」


「火星人って脳に寄生できるのか?」


「もちろん」と彼はわけ知り顔で言った。「火星人ってさ、本当にちっちゃいんだよ。わずかな太陽光でも生きていけるようにね。小さくなったんだ。そんでさ、あのアポロ計画のときにさ、宇宙船と一緒にやって来たんだ。そして適当な人間を見つけて寄生してきたのさ」


「アポロ計画は月に行ったんじゃなかったっけ?」


「まあそうかもしれんが……。ほら、あれ見ろよ! 俺が高校時代超大盛を平らげてさ、一万円もらったラーメン屋が……」


 Tはマシンガンのように話し続け、木村はただひたすら相槌あいづちを打っていた。彼には話したいことが山ほどあるみたいだった。道路脇の一つ一つの光景に彼の幼少期から高校卒業までの思い出が染み付いている。普通の人間なら嫌気が差してくるのかもしれなかったが、木村はほとんど問題なくその話を吸収していた。まるで今この瞬間彼と一緒にそれらの記憶を生き直しているかのような気分だった。たしかに作家を目指すだけの素質はあるのかもしれない、と木村は思う。言葉の一つ一つに、想いが込められている。それらの想いが溢れ、一つの留まるところのない流れとなって、聴き手の木村の脳に直撃していた。空は曇っていたが、曇り空に関してもTは大量の記憶を持っているみたいだった。


「俺が初めて失恋したときも、こんな曇り空だった。季節はもう少しあとだったけどな」


「何歳のとき?」


「あれは……そう、十三歳かな。中二だ。たしか。俺はものすごい長いラブレターを書いたんだが、それがどういうわけかクラス中に流出してしまってな。笑い物だ。でもそんなことどうでもよかったんだ。だってクラスメイトたちに俺の気持ちが理解できるとは思えなかったからな。俺はすでに変わり者で通していたしな。問題はその女の子の気持ちを俺がゲットできなかったってことだ。物静かで上品だった。でもユーモアのセンスを持っていた。字が汚くてな。でもその汚さがこう、心にグッとくるんだよ。いやあ、あの頃は悲しくて夜も眠れなかったね」


「彼女は今どこにいるんだろう?」


「彼女はさ」とTはハンドルを握りながら言った。「高校に行くときにさ、親の仕事の関係でさ、大阪に行っちゃったんだよ。家族みんなでね。いやはや。あれもまた悲しい経験だった。あまりにも悲しかったんで、俺は卒業式をすっぽかしてさ、永平寺に忍び込んでいたんだ。出家させてくださいってな。すぐに捕まって、親が呼ばれたんだが」


「でも失恋してから一年以上経っていたわけだよね」


「そんなに簡単に気持ちは退いていかないものなんだよ。まったくね……」


 彼は音楽をかけようと言った。自分で編集したCDみたいだった。木村には分からないような古い洋楽ばかりだった。これはアニマルズの曲だ、とTは言った。「”We Gotta Get Out of This Place” 俺たちはここから出なくちゃならない●●●●●●●●●●●●●●●●●って意味の曲さ」。彼は大声でその曲を歌った。木村も教えられた通りに歌った。


「俺はどこにいてもさ、この曲のことを思い出すんだ」とTは言った。「福井から抜け出せば、もっといい場所に行けるんだと最初は思い込んでいた。でも東京にいても思い出す。インドにいてもな。俺は何というのか……どこにいても馴染めないんだ。最初はさ、ああ、ここが俺にとってのピッタリの場所だ、って思う。いやあ、最高だぜ。もうどこにも行かねえってな具合でな。でも少しすると、むずむずしてくることになる。やっぱ違うかも、とか思うようになってくる。そんでしばらくすると……また逃げる。逃げるというか……探す●●、というかな。いつも探しているんだよ。俺は。俺だけの場所を。俺にとってピッタリの場所をさ」


「本当にそんな場所があると思うかい?」


「どうだろうな……」と彼は前を見ながら言った。赤信号で、止まった。一瞬車内に沈黙が生まれた。曲は次のものに変わっていた。木村には歌っている人間も、曲名も、まったく分からなかったのだが……。「もしかしてないかもしれない。それは俺にも分かってはいるんだ。でもさ、移動しないわけにはいかないんだよ。本当に……このむずむず●●●●のせいだ。俺のせいじゃない。生まれたときからさ、これが俺の中にいるんだよ。おい、こんなところで満足するなよ。満足したら終わりだぜってさ。ほら、まわりを見てみなよ。狭い世界に閉じこもって遊んでいる子供たちか、あるいは挑戦をやめた大人たちばっかりだ。まともな人たちだって少しはいるんだと思う。それは俺も認めるよ。でもさ……俺に関しては……彼らのようにはなりたくないって思うんだよな。そう思うとさ、もう動かないわけにはいかないんだよ。何かに尻を叩かれているような気分だ。だからあっちに行ったりこっちに行ったりしているんだろうな。よく分からんけど」


「僕は自分のどこかに諦め切ったような場所があると感じる」と木村は言った。この話を誰かにするのは初めてのことだった。「それは薄暗くてさ……そう、死に近い●●●●場所なんだ。自分でもそれが分かる。昔から僕は……君のようにアクティブじゃなかった。こう、悟ったようなところがある。何をやったって無駄なんだって感じでさ。でもそんなのはふり●●なんだ。悟ってなんかいない。そう見えるだけのことでね。そのせいで人を馬鹿にしている、と思われることもよくある。両親にもそういうことを言われた。いつもめていて、人を見下しているってね。でもそんなつもりはないんだよ。あくまでただ……その、薄暗い場所にさ、絡め取られてしまうだけなんだ。それに捉われるとね……ほとんどのものが同じように薄暗く見えてくる。人間のあらゆる営為が不毛なんだと感じられてくる。何をやったってどうせ死ぬんだと思えてくる。例外なのは君だけだよ。そう、君だけ。それにあらがうようにして動き回っている。生命そのものみたいに、僕には見える」


 Tは前を向いたままその話を聞いていた。彼が純粋な聴き手にまわるのは――二人の関係の中においては――珍しいことだった。何かを言おうとして、やめた。また何かを言おうとして、やめた。海が近付いてきたことが分かった。


「俺もそんな感じのことを考えることはある」と駐車場に入った段階で、ようやくTは口を開いた。「何をやったって結局は無駄なんだってさ。結局は死ぬんだってさ。でも一方でさ、それだけじゃないんだ。それだけじゃない●●●●●●●●って気が、なぜかしているんだよ。それもまたむずむずが教えてくれていることだ。俺には分からん。だってただのアホな二十歳はたちの学生だからな。ろくに大学にも行っていない学生だ。俺に分かるのはただ……そう、イエス・キリストは絶望しなかったってことだけだな」


「なんだよ、それ。イエス・キリストって」と驚いて木村は言った。


「俺一時期聖書にはまっていてさ、もうちょっとで洗礼を受けるところだったんだ。宗教的な問いに悩んでいてね。あれは十七歳の頃だったか……。まあとにかくさ、イエス・キリストは困難な状況においても何かを信じていたってことさ。絶望して自殺したりはしなかった。そういう奴が一人いたってだけでもさ、なんか救われる気にならないか?」


「まあ」と木村は言った。「いないよりはね」


「そう、そこが大事なんだ。ほら、着いたぜ。海だ海だ。日本海だ」


 東尋坊に着いた。駐車場の先に観光施設のようなものが見える。タワーのような高い建物もあった。少し行くと断崖と海が見えてきた。曇っていたが、海は素晴らしかった。風が吹いてきていた。潮の匂いがあたりを包み込んでいた。暑いが、なかなか素敵な場所だった。木村はTにそう言った。


「まあな。俺もいいとこだと思うよ。夢でさ、一度ここから飛び降りたことがある」


「この崖から?」


「うん。でも俺は別に絶望していたわけじゃないんだ。ただ単にさ、下の方に何かが見えたわけ。白い何かだったな。白くて、キラリと光っていた。あれは何だろう、と思う。そのとき妹の声が聞こえたのさ。その、夢の中でね。ねえ●●、って言っていた。何だ? って後ろを振り向く。そのときに足元の地面が崩れてね、俺は落ちていく。スッと重力が消えてさ。なんというか……ああ、俺の人生ここで終わりなのか。ああ、短かったな。もうすぐ岩だ。岩がやって来て俺を突き刺すぞ……と思っているのに岩はいつまで経っても来ないんだ」


「それで、どうなったんだ?」


「それだけだよ。ずうっと落ちていく。あ! っと目覚めたときにはベッドから転げ落ちていた。ふうってなもんだよ。冷や汗かいていた。俺はまだ死にたくない、とそのとき心から思ったね。なあ、あれが妹が意図的に●●●●落としたのだとしたらどう思う? 本当は後ろから押したのかも」


「でも夢だよ」と木村は言った。彼らは断崖の先端の方に近付いてきていた。ほかにも多くの観光客が来ていた。外国人の姿も目に付いた。


「おい!」と言ってTが急に木村の背中を押した。そしてすぐに両手でしっかりと捕まえた。


「いや、ちょっと!」と温厚な木村もさすがに怒って言った。「心臓が止まるかと思った」


「ということは……」とTはニヤリとして言った。「君もまだ生きたがっているということだ。人生に失望してはいない。それが大事なことだ。死ぬのは怖い●●●●●●。プラス、たぶんまだやるべきことがある。きちんと生きてな」


「君といると退屈しない。それはたしかだけど……なんか寿命が縮んでいるような気もするね」。木村はそう言ってあらためて崖の下を見た。日本海の波が岩に何度も何度もぶつかっているのが見えた。白い波飛沫しぶき。これは福井県が福井県になるずっと前から、このようにしてぶつかり続けていたのだ、と彼は思う。そう思うとちょっとした感慨のようなものを抱かないわけにはいかなかった。自然に比べれば我々の営為なんてはかないものだ。しかし……にもかかわらず、生きて、何かをしなければならないような気がしている。問題は指針がないことだ。俺も、Tも。たぶんその妹もまた……。


「よくテレビドラマなんかでこういう崖が出てくる」とTが言った。「犯人がさ、追い詰められて、ここで自白するんだよ。そして飛び降りようとするんだが、刑事が止める。そんなシーンでさ。実際にここも撮影に何度も使われているらしい。こういう崖ってのはさ、分かりやすい死の象徴なんだよ。俺はそう思うね」


「昔の戦争の映像でさ、女の人が米軍に捕まることを恐れて飛び込むシーンを観たよ。彼女は死んだ」


「それ有名なやつだよな。俺も見たよ。あの人は……飛んで、落ちる寸前までさ、いったい何を考えていたんだろうね?」


「見当もつかない」と木村は言った。


「そうだよな」とTは言った。


 彼らは売店でアイスクリームを買って食べた。そのあと車に乗って彼の思い出の地を回った。もっとも街の方はあまり行かず、山とか川がメインだった。彼はいろいろな思い出を持っていた。ここで釣りをしたんだとか(彼が生まれて初めて釣りをしたのがそこだったのだ)、ここで熊を見たんだとか。彼が卒業した小学校と中学校と高校まで見に行った。彼が生まれて初めて野球をやったグラウンドとか、生まれて初めて逆上がりをやった公園とかも見に行った。彼が生まれて初めて恋をした幼稚園にも行った。彼はそこで幼稚園の先生に恋をしたのだった。


「あれは正真正銘の初恋だったね」と彼は言った。「というか愛だ。俺は身体は小さかったが、もうすでに成熟した男の意識を持っていたのさ」


「なかなか素敵な先生だったんだろうね」


「そりゃあもう」と彼は言った。そして一度目を閉じた。「あれは愛だった。相互的な愛だ。彼女も感じていたはずだ。でも俺はあまりにも幼くて、まだ自分で金を稼ぐこともできなかったんだ。それで泣く泣く彼女は俺を諦めたってわけさ」


 彼が高校時代によく行っていた中華料理屋で昼食を取った。ものすごいボリュームで木村は驚いたが、想像していたほど味は悪くはなかった。店内は混んでいたが、奥の方でTは大声で店主と話をしていた。ガハハハハと豪快に笑う初老の男だった。奥さんとおぼしき女性もハハハと笑っていた。Tがいるとみんなが楽しくなるみたいだった。


「昔だいぶタダで食わしてもらったからね」と彼は言った。「俺もいろいろあってさ。ほら、特に家に帰りたくないときなんか」


「家族とうまく行っていなかったのか?」


「いや、そういうわけでもないんだが……。まあ俺は本質的に家庭的な人間じゃないのさ。すぐ退屈しちまうんだよ。動いていないと気が済まない」


「もう病気みたいなもんだな」


「そう、病気みたいなもんなんだ」と彼は言った。そして中華丼を猛スピードで平らげてしまった。


 午後は木村が運転した。正直なところ実家に帰省したときくらいしか運転したことがなかったので、ものすごく緊張した。ぶつけると悪いから、と言って断ったのだが、どうしても運転しないと駄目だ。お前が運転しないと俺は今すぐ全裸になって警察署の目の前で盆踊りを踊ると彼が主張したので、仕方なく運転した。木村はきちんと両手を時計の二時と十時の位置に置いた。後方を確認して、制限速度を気にして……。


 Tは両手が自由になったのを良いことに、ダッシュボードから何枚かCDを出して、それを吟味していた。そしていろいろと入れ替えながら大音量でかけていた。彼は楽しそうに大声で歌っていた。ところどころ教わって木村も歌った。運転しやすい道を選んでいるうちに、かなり田舎の方に入り込んでしまっていた。田んぼや、森が見えた。川が見えた。あまりうちの東北の実家と変わらないな、と木村は思う。時折適当なところで止まって、外に出た。空気が綺麗で、一斉に蝉が鳴いていた。短い命。彼らはたしか一週間しか生きられなかったはずだ。


「ミンミンミンミンミン!」とTは叫んでいた。「ミンミンミンミンミン!」


「いつから蝉になったんだ?」と木村は訊く。


「ついさっきからさ。というかさ、俺は実はずっと蝉になりたいと思っていたんだ。分かるかい? 一週間の命だ。たった七日間しか生きられない。だとしたら……余計なことを考えている暇なんかない。ただ鳴くのみだ。生きるのみだ」


「彼らはその事実を知っているのかな? つまり……それくらいしか生きられないということを」


「たぶん本能的に知っているんじゃないのかな? 俺はそういう気がするよ。ほら、邪魔しないでくれ。ミンミンミンミンミン!」


 彼らはスーパーで肉や野菜や酒を買った。木村も支払おうとしたのだが、Tがそれを止めた。「ここは俺のホームだ。君に払わせるわけにはいかない」


 夕方近くになって、ようやくTの実家に着いた。スーパーから実家まではTが運転した。家に近付くにつれ、彼は少しずつ無口になっていった。杉の木に囲まれた庭に入ると、大きな比較的新しい家が見えてきた。二階建てで、外壁はクリーム色だった。屋根には大型の太陽光パネルが設置されていた。ガレージには黒いベンツ。ピカピカに磨き上げられている。一方奥の方に、もう一つ古い家が見えた。それが彼の言う「じいちゃんの家」なのだろうと木村は見当をつけた。平屋建ての大きな家で、屋根は瓦だった。たしかに古そうだが、まだまだ問題なく住むことはできそうだ。そちらの横には納屋があって、そのそばに大型のトラクターが停まっていた。軽トラックもあった。


 Tはそのままじいちゃんに行こうと言ったのだが、木村が挨拶くらいしないと駄目だろうと言い張ったので、一応新しい家に上がらせてもらうことにした。Tが玄関を開けると、すぐに母親が出てきた。そして丁重に挨拶をした。木村も挨拶を返した。「本当にどうしようもない息子で。いつも落ち着きがなくて……」


「いや。とても面白くて、いつもこちらが楽しませて頂いています」と木村は言った。そして東京から持ってきた菓子折りを出した。


「そんなもの要らないのに」とぼそっとTが言った。


 彼らは居間に上がらせてもらって、Tの父親にも会った。予想外にも気さくな人で、木村は結構楽しく会話を交わした。東京での生活のこと。自分の実家のこと。今日見てきたこと……。Tは早く抜け出したくてむずむずしているみたいだった。そのあとで妹が少しだけ顔を出した。軽く微笑み――に似た何か――を浮かべ、頭を下げて、去っていった。母親はこちらでご飯を食べればいいのに、と言ったが、すかさず俺たちは大丈夫とTが言った。「今日は庭でバーベキューだ」


 彼らは家を出た。そして庭を横切って古い家の方に行った。荷物を下ろす。畳敷きの部屋がいくつもあった。綺麗に掃除されているみたいだった。台所にはきちんと冷蔵庫もあった。彼らはそこにとりあえずビールを入れた。


「あの人たちといると息が詰まるよ」とTは言った。


「でも結構楽しそうな人たちだね。なんというか……君の話からもっと厳格なタイプかと思っていたけれど」


「俺にとっちゃ十分厳格さ。母親はヒステリックで父親はユーモアのセンスがない」


「近くにいるからそう思えるだけだよ」と木村は言う。


「まあだから本当は帰ってこなきゃいいんだけどな」


「でも帰りたくなる?」


「まあときどきはな」とTは認めた。「ここの空気だよ。きっと。ここで生まれ育っちゃったからさ。たぶんここの空気をたまに吸わないと、おかしくなっちゃうんだよ。俺は結構タフなタイプなんだと思い込んでいたんだけどさ、つまりどこにいてもやっていけるってね、あるとき突然窒息した金魚みたいにさ、目が飛び出て、息が苦しくなって、心臓がドキドキしてね……。ああ、俺死ぬのかな、って思った。でもそのときふとさ、こっちの田舎の景色が頭に浮かんできたんだよね。カエルの声とかさ、蝉の鳴き声とかさ、波の音とかさ、風とか……。そういうものに触れなければならない、と感じた。そんでそのときは急いで帰ってきたんだ。長期休暇でもなんでもない頃だったから両親は驚いていたけれどね。俺はここで充電して、すぐにまた帰ってきた。問題はさ、ここに来るとすぐ出ていきたくなるし、出ていったら出ていったで、すぐに懐かしくなるってことなんだよな。どうしたらいいんだろうね? 俺は」


「死ぬまで移動し続けるしかないんだよ。マグロみたいに」


「なるほど」と彼は言った。「でもそれってキツくないかな?」


「ある意味では」と木村は言った。「そういえば測量士Kはずっと城に着かないんだったっけね?」


「そう。ずっと移動している。もし着いちまったら……彼の人生は終わるのかもしれない。もしかして」


「でも目指さないわけにはいかないんだろ?」


「たぶんね。詳しいことはカフカに訊かないと分からんが」


 彼らはバーベキューに取り掛かった。きちんとしたバーベキュー用のコンロがあって、Tは炭火をセットして、火を点けた。彼はこういったことに慣れているみたいだった。そのあとで肉や、トウモロコシや、玉ねぎや、マシュマロなんかを焼いた。Tは一種類ずつ紙の皿に載せて、新しい家の方に持っていった。「妹に食わしてやる」と彼は言った。肉を食べながら、木村は一人で待っていた。小さな虫たちがたくさん集まってきていた。蒸し暑いが、なかなか楽しかった。もっとも一人になってしまうと、突然「自分はこんなところで何をしているんだろう」という気持ちに襲われることになる。彼は自分の東京での生活と、退屈な実家のことを思い浮かべた。Tがいなければ何をしたらいいのかも分からない。きっと実家に帰って、無為に時間を過ごして、戻ってきて、バイトをやって……また元の日常に戻るのだ。夏休みが終わり、大学に通って、卒業する。そして就職。問題はほとんどすべてが予測可能だ●●●●●●●●●●●●●ということだった。彼は自分がそのような道を辿るだろうということをほぼ確信することができた。そしてその中でさほど支障もなく生きていけるだろうということが……。


 しかし変なステップを踏みながら庭を横切ってくるTを見ていると(得意げな顔をしている)、自分が少々恥ずかしくなった。挑戦もせず、努力もせず、冒険もせず……無難な道を辿っているだけだ。Tがいなければ福井に来ることもなければ、今日見た光景を見ることもなかっただろう。彼は俺の正反対で、何もかもが予測不能だ。衝動的にあっちに行ったりこっちに行ったりしている。でもその奥には孤独な魂がある。木村にはなぜかそれが分かった。そしてその認識こそが二人を強く結び付けていたのだ。我々はいつか救われるんだろうか、と彼は思う。でもそんなことは、おそらく誰にも分からなかった。彼はため息をついた。


何を●●ため息を●●●●ついているんだ●●●●●●●!」とTは言った。彼はすでに酔っ払っていた。「俺の家でそんなことはさせんぞ」


「ごめん。ついね。今日が楽し過ぎてさ、また元の生活に戻るのが辛くなっちゃったんだよ。きっと」


「ハッハ。それなら許してやろう。ほら、ビールを飲みなさい」


「ありがとう。妹さんは? 肉食べてた?」


「彼女はあんまり食べんのだ」と彼は言った。「朝露あさつゆを舐めて生きておる」


「なんだよそのあさつゆ●●●●って」


「てんとう虫がいてな、それが彼女の親友なんだ。唯一の親友だ。そしてそれがさ、毎朝、命がけで背中に朝露を集めてくるんだよ。鳥たちが命を狙っている。でも彼女のためだってさ。そんで持ってきた朝露を、ちょっとだけ舐める。そうすると彼女は一日生きていけるんだよ。あとは何も食べる必要なし。本当に精霊みたいなものなんだ」


「それは……嘘だよね?」


「どうかな」と彼は言った。そしてプシュッとビールの缶を開けた。「本当にそんな感じなんじゃないかと思うことがある。前よりも痩せたよ。見たよな? 部屋にこもってばっかいてさ。病気になっちまう」


「大学にはちゃんと行っていたんだよね?」


「とりあえずはな。今学期の試験は乗り切った。まあ彼女もその気になれば優秀だからな。でも……もしかしたらもう戻らないかもしれん。なんとなくそういう気配があるね。俺には分かるんだが」


「それって休学するってこと?」


「そうだな。たぶん」


「どうして?」


「どうしてって……。何かが合わないんだよ。彼女が大事にしたいと思っていることと、世の中が大事にしていることの間に齟齬そごがある。そんな感じじゃないかと俺は思うんだが……。もし俺ならね、それならそれで構わないって言って、自分で勝手に何かを始めるよ。それがまともだと思うからだ。でもみんながみんな俺みたいに図太いわけじゃない。特にてんとう虫とおしゃべりしている精霊みたいな女の子はな。彼女はちょっと繊細過ぎるんだよ」


「この間会ったときはそんな印象は持たなかったけどな」と木村は言った。「独特だけど……芯があるように見えた。少なくともあのときは、だけどね」


「俺たちは宇宙人みたいなものなんだよ。二人ともさ。だからうまく世間と歩調を合わせてやっていくことができない。彼らがやっていることにさ、興味が持てないんだ。それが正直なところ。だとしたら……自分で自分の道を切り開くしかない、と思うね。俺は」


「彼女は何をしたいんだろう? 具体的には?」


「そこが問題だ」と彼は顔をしかめて言った。そして意味もなくとうもろこしを串で突き刺した。「俺も彼女もさ、具体的な道筋が浮かんでこない。たぶんさ、あいつも何かを書きたいんじゃないかと思うよ。それで飯を食っていきたいと思っているはずだ。でも……たぶん自信がない。自分にはできっこないと思っている。あるいは……そんなことをしてはいけない●●●●●●●●●●●●●と思っているか」


「してはいけない?」


「うん。つまりさ、あんまり良い作品を読み過ぎたんだよ。だから自分がそれらの作者と肩を並べるのはおこがましいってわけなのさ。でも俺に言わせりゃそんなのは言い訳だ。もし自分の中のむずむず●●●●が何かを書けと言ったらね、書かなくちゃならないんだ。それは義務だ。呪いだ。祝福だ。とにかくさ、恥ずかしいとか自信がないとか言っている場合じゃないんだよ。生きているうちにやらなくちゃならない。それが俺の意見だ」


「君は今何かを書いている?」


「それが……その」と言って彼はポリポリと頭を掻いた。「書いては収拾がつかなくなって捨て、また書いては捨てってな感じだ。だから俺も人のことは言えないんだよ。正直なところ。でもね、だからこそいろんなところに行って、いろんな人に会って、経験を積みまくってやろうと今は思っているんだ。君の目には落ち着きがないと見えるだけかもしれないけどさ。俺なりに狙いがあってやっていることなんだ。ありとあらゆる経験を積むこと●●●●●●●●●●●●●●。まあ正直なところ結構つらいよ。だっていつまでこの〈経験積み〉を続けなくちゃならないのか自分でも分からないからだ。一年かもしれないし、十年かもしれない。二十年かもしれない。なあ、二十年だぜ? そしたらどうする? 俺はもう四十歳のじいさんだ」


「四十歳はまだじいさんじゃないよ」と木村は言った。「君は……そう、何の根拠もないけどさ、なんとなくできそうな気がするな。だって……こんなに生きたいという熱意を持っている人間をさ、僕は見たことがないから。機が熟せば、君はきっと何か大事なことを成し遂げられるんじゃないかって気がするよ。なんとなくだけど」


「君にそう言われると嬉しいね。本当だぜ? 嘘じゃない。ほら、肉をあげるからさ。これ食えよ」


「ありがとう。うん。美味うまいよ……。でも妹さんのことだけど……彼女はその、精神的な病なんだろうか? つまりは」


「病院に行ったらそう診断されるだろうな」と彼は言った。「でも俺はそんなのはまやかしだと思っている。だって考えてみなよ? どこに病んでいない人間がいるってんだ? 俺に言わせりゃちゃんと学校に行って、卒業して、会社に入って、毎日せっせと働いて税金納めている方がおかしいと思うね。みんないったい何のために生きているんだ? そんなことを考えてすらいないんだぜ? 思考能力が退化しているのさ。学校のせいだよ。というかさ、学校はそれを狙っているんだ。自分の頭を使わせないこと●●●●●●●●●●●●。箱の中にだね、こう、ぎゅっと押し込めるんだ。そうすると有能な労働者が出来上がる。あとは死ぬまで働かせる。老人になったらもうボケて自分の頭を使う気力なんかなくなっている。まあよくできたもんだよな」


「まあそれは極論のような気はするけど……。とにかく、君が言いたいのは彼女は病だけど病じゃないってことかな?」


ほういうほほだ●●●●●●●(そういうことだ)!」と牛カルビを食べながらTは言った。ビールでそれを流し込む。ゴクリ。「結局はさ、みんな名前を付けることで安心しちまうのさ。うちの両親なんか完璧にそのタイプだな。彼女が病院に行ったとするだろ? そんでうつ病とか、なんとか障害とか、とにかく適当な名前を付けられる。そうすると途端に安心しちまうのさ。ああ、分かったってな。彼女は病気なんだ。だから駄目なんだと。それが治ればきっと普通の社会人として生きていけるはずだってね。でもそんなのは嘘さ。これは病気なんかじゃなくて、人間の本来向き合うべき●●●●●●●●正しい状態なんだと思うね。俺は」


「正しい状態」


「そうそう。要するに何をしたらいいのか分かんねえ。どこに行ったらいいのかも分かんねえって状態のことだよ。でもそれでいいんだ。それが本当なんだ。いいか? 俺たちの同級生たちなんてほとんどがボンクラさ。こういうことをした方がいいってどっかから聞いてきてさ、その通りに行動しているだけなんだよ。反抗的な奴らだってそうだ。このように反抗しなさいってのをどっかから聞いてきてさ、その通りに反抗しているのさ。一緒だよ。本質的にはね」


「まあそういう感じは……あるけどね」


「そうだろ? 俺たちくらいだよ。自分の頭を使おうとしているのはさ。まあ探したらもうちょっといるかもしれないけどさ……。ヒック。こりゃ失礼。でもさ、まあ妹も俺もさ、君も含めてだけど、死ぬまで完全に治ったりはしないと思うね。俺たちは〈正常〉にはなれないのさ。それが運命だ」


「君たち兄妹きょうだいはそうかもしれないけどね。僕は……」


「大丈夫だ。君も病人だ」とTは確信を込めた顔付きで言った。「俺の言っていることを理解している時点で通常じゃないのさ。ハッハ。君はそのうちどこかに迷い込むよ。どこか深い場所にね。そして何かを見つけるんだ」


「何かって何?」


「そんなのは」と彼は天を見上げながら言った。「俺の知ったこっちゃない」


 買ってきたものをほとんど食べ尽くしてしまうと、カロリーを消費するためにどり足で裏山に登った。真っ暗だった。Tはカブトムシを捕まえると言ったが、どこにもいなかった。熊がやって来たらどうしようと木村はそればかり考えていた。歌えばいいんだよ、とTが言った。だから二人で松山千春の『大空と大地の中で』を歌いながら登った。その曲の歌詞くらいしか木村が知らなかったからだ。至るところを虫に刺され、ヒルに貼り付かれながら彼らは帰ってきた。朦朧もうろうとする意識の中で、なんとかシャワーを浴びて、エアコンのある部屋で眠った。どうやら事前にTの母親が布団を用意してくれていたみたいだった。部屋の中にいてもカエルの声と、蝉の声が響いてきた。木村はチラリとTの妹のことを思ったが、やがて眠りに落ちてしまった。彼は夢の中でも歌っていたのだが、その歌詞は外国語だった。その歌を歌うとなぜか道の両脇からたくさんの毛虫が這い寄ってきた。木からも落ちてくる。彼は歌うのをやめようと思う。でもやめることができない。最初の毛虫が足にやって来た。彼は裸足だった。カー、カー、とカラスが鳴いていた。彼はその毛虫を拾い上げる。するとそれは毛虫ではなくて、人間の小指だった。切り口にまだ血が付いている。彼はゾッとしてそれを捨てる。はっとしてあたりを見ると、毛虫たちは全部指に変わっていた。誰の指なんだろう、と思う。カー、カー、とカラスが鳴いた。上を見る。でもカラスはいない。ドクン、と心臓の鼓動が鳴った。彼はそこで目を覚ました。


 スマートフォンで時刻を確認すると、午前五時五十六分だった。まだ起きるには早い。でもとりあえずトイレに行きたかった。彼はなんとか立ち上がって、ふらふらとした足取りでトイレに行った。そのあと浴室で顔を洗った。鏡に映ったその顔は、自分ではない誰か別の人間のように見えた。髪の毛がくしゃくしゃで、目に隈ができていた。水でなんとか寝癖を直した。軽く歯を磨いた。それで少しは気分が良くなった。昨日あんなに飲んだせいだな、と彼は思う。だからまだ本調子ではないのだ。


 もう少し寝たかったが、また変な夢を見るのが怖かった。それに、知らない土地の朝を体験したいという思いもあって、外に出た。陽はすでに昇っていた。蝉の声。そしてカエルの合唱。空気は湿気をはらんでいたが、それでもなかなか気持ちが良かった。新しい場所で、新しい人生を生き始めたような気分だった。


 昨日のゴミが散乱していたので、袋を持ってきて集めた。缶は缶で、燃えるゴミは燃えるゴミでまとめる。そんなことをしていると、新しい方の家から人が一人出てきた。たぶん母親だろうと思って見ていると、それは妹だった。彼女はまっすぐ木村の方にやって来た。そしておはようございます、と言った。


 おはようございます、となぜか赤くなりながら彼は言った。「どうもすみませんでした。昨日の夜は。お騒がせして」


「全然構わないんです。こっちまで話し声は聞こえませんから」と彼女は言った。「夜に山の方から誰かが歌う声は聞こえてきたけれど」


「カブトムシを捕りにいったんです」と彼は言った。「でも全然いなかった」


「木村さんは……楽しいんですか? 兄といて」


「うん、まあ……楽しいですよ」と彼は言った。「正直なところ、これまでに会った誰よりも……エキセントリックだし。予想外のことをするし。でも自分の頭を使っている。こんな人は……あんまり見たことがないですね」


「兄は友人がいっぱいいるように見えるんですけど……本当はそうじゃないんです。表面的にはニコニコしておしゃべりしています。外国の人たちともすぐに仲良くなれる。でも本質的には……一人なんです。私にはそれが分かります。ねえ、少し歩きませんか? 私は朝にいつも散歩するんです。このあたりを」


「もしご迷惑じゃなければ」


「全然」と彼女は言った。


 彼らはゆっくりと歩いた。家を出てすぐ、田んぼの間にある細い砂利道に入った。カエルや、蝉の鳴き声が聞こえていた。鳥の鳴き声も聞こえていた。昨日とは違って雲は少なく、青空が見えていた。太陽が怒ったように照りつけている。でもまだ、そこまで暑くはない。彼らは目を合わせなかった。お互いに自分の足元を見つめていた。遠くの方を軽トラックが走っていった。犬の散歩をしている人の姿も、かなり先の方に見えた。しかし、すぐ近くには誰もいない。彼女は兄について話していた。


「兄は私のことを心配してくれているみたいなんです。あの人独特の、奇妙なやり方で、ですけど。それはありがたいんですけど……私としてはあの人の方が心配なんです。ねえ、男の人は普通――まあ女もそうですけど――歳を取るにつれて、成熟して大人になっていくものですよね。木村さんは落ち着きがあるように見えるけど……」


「いやいや」と木村はさえぎった。「そんなことはないです。僕はただぐずぐずしていて、勇気が出せないだけなんです。だから彼みたいなものすごい行動力を見ていると……正直うらやましくなる。僕にはあんなことはできそうにないな」


「あれは一種のポーズなんです」と彼女は言った。「分かりますか? 演技です。私は子供の頃からそれに気付いていました。そして複雑な気持ちを抱いていました。みんなあのエネルギーとか、熱意とか、奇抜さとか……そういったものに簡単に騙されてしまうんです。それで笑ってどうしようもない奴だとか、変わり者だとか言ってそれで終わりです。あの人をああいう変な行動に駆り立てているのは、もっと深いというか、根本的なことだと私は考えています。木村さんはどうですか?」


「多少そういう部分はあるね。たしかに」と彼は言った。「最初に会ったときから、いろんなことが過剰なんだ。反応も、しゃべり方も、表情も、全部ね。でもあれが本当にすべて●●●演技かというと……そうでもない気がする。生まれつきのものも多いんじゃないかという気がするけど」


「たしかに幼稚園児くらいからずっと変ですけどね」と彼女は言った。


「まあそうだろうね。今さら変えることはできない。でも……彼を駆り立てているのは何か、というのは僕も考えることはある。彼は普通の規範に――ルールに――縛られて生きることに耐えられないんだと思うな。すぐに窒息してしまう。だから堅苦しいものがあると、演技をしてでもそこから抜け出さないわけにはいかないんだ。彼が本当に何を求めているかというと……自由、かな」


「自由って何なんですか?」と彼女は言った。「木村さんには分かりますか?」


「分か……らない」と彼は言った。そして空を見上げた。青い、夏の空。雲がゆっくりと移動していく。カラスが飛んでいくのが見えた。カラス●●●。「自由にも、きっといろんな種類があるんだと思う。たとえば……僕らは今奴隷ではない。だからそういう意味では自由に好きなことができる。犯罪さえ犯さなければ」


「それも一つの自由ですね。でも……」


「そう、でも、実際には生きていくために、何かに従属して働かなくてはならない。大抵の人はそうだ。独立して生計を立てていける人はそんなにいない」


「それができたら自由になれると思いますか? その……精神的に?」


「会社勤めよりはましかもしれない、とは思う」と木村は言った。「ただこれはあくまで彼に関しての話であって、僕はちょっと違う。僕は本当に自由を求めているのかどうか怪しいからね。たぶん普通に就職することになると思うんだけど……」


「測量士になるって言っていましたね。前に」


「今のところはそう考えている」と木村は言った。「でも先のことまでは分からない。もしかして……カフカの『城』は読んだことある?」


「あります」とちょっと恥ずかしそうに彼女は言った。「ずいぶん前のことですけど」


「僕は読んでいない。なんか読もうという気になれないんだ。もともとあまり小説を読むタイプでもないしね。でもなぜか彼にその話を聞いて、ちょっと気になっていた。測量士Kはいつまで経っても目的地の城に辿り着けないんだって」


「城は一種のメタファーなんです」と彼女は言った。「カフカはいつもそういう書き方をします。細部を見ると具体的なのに、少し離れてみると……いろんな縮尺がちょっと歪んでいるんです。主人公はその場その場で論理的に行動しようとします。でもどんどん変な方向に流れていっちゃうんです。そのうちに真の目的が分からなくなってくる」


「それは人生そのもののメタファーなのかな?」


「おそらくは」と彼女は言った。「カフカもたぶん、自由を目指していたとは思うんですけど」


「それはどういう種類の自由なのかな?」


「私には……分かりません。そんなに深く読んだわけではないので」


 その後彼らは当たりさわりのない会話をしながら歩いた。彼女の大学の話。彼の大学の話。彼女の子供時代の話(引っ込み思案で、あまり外に出なかった。友達もあまりいなかった。エトセトラ、エトセトラ……)。彼の子供時代の話。もっとも木村は話しているそばから退屈してしまった。というのも取り立てて話すことなどなかったからだ。中学高校とサッカーをやっていた。友達はそれなりにいたが、親友がいたかというとそうでもない。本は少しだけ読んだ。音楽も少しだけ。成績は中の上。温厚で、小さい頃を除けば殴り合いの喧嘩をしたことは一度もない。好きな女の子はいたが、結局告白する勇気がなくて、そのままになってしまった。普通の男。個性のない男。どうしてTが自分のことを誘ったのか、彼には分からなくなってきてしまった。何かの間違いだったのではなかったか? 彼がそう言うと、彼女はクスクスと笑った。


「木村さんはちゃんと変ですよ」と彼女は言った。「自分で気付かないんですか?」


「全然」と彼は言った。「本当に自分はつまらない人間だと思っている。大したジョークも言えないし」


「別にいいんですよ、それで」と彼女は言った。「兄がカフカ的だと言っていたの、なんとなく分かるような気がします。普通っぽいけど、普通じゃないんです。うまく言えないけれど」


「自分では分からないんだよなあ……」と彼は頭を掻きながら言った。


 四十分近く、彼らは歩いていた。ようやく家が近くなってきたところで、木村は言った。「そういえば彼は君のことを心配していたよ。すごくね。もしかしたら……そう休学するんじゃないかって」


「それは……まだ分かりません。そうなるかもしれないし……また東京に戻るかもしれません。自分でもはっきりしないんです。ただ……あっちにいると……」


「うん」


「そうですね……なんだか……そう、自分のやっていることと、自分自身との間に齟齬そごができている感じなんです。ズレがあるというか……」


「うん」。二人は歩調をわざと遅くしている。


「そしてそういう状態が続くと……突然電池切れみたいな状態になっちゃうんです。もう、いろんなことがどうでもよくなってきちゃうんです。教授の言っていることも。同級生たちが言っていることも。私に分かるのはこれが正しくない状態だ●●●●●●●●●●●ということだけ」


「君も……たぶん……周囲にうまく馴染めない人なんだろうね。彼と同じように。それは……きっと大変だろうな。想像することしかできないんだけど」


「まあ」と彼女は笑いながら言った。「それなりに」


「うん。申し訳ない。大したこと言えなくて。僕にはどうすればいいのか分からない。本当に。自分で何かを作ればいいのかな? もしかして?」


「もしかして、ですね」と彼女は前を向きながら言った。「そうすれば……自分に正直になれるのかもしれません」


「僕にはそんなことはできないだろうな、きっと」と木村は言った。そしてたまたまそこに転がっていた石ころを遠くに蹴飛ばした。それは用水路に落ちて、ポチャンという音を立てた。「僕は凡人だから」


「そんなこと分かりませんよ、誰にも」と彼女はそこで初めて木村の顔を正面から見ながら言った。「だから決めつけない方がいいです。きっと」


「そうだな。そうかもしれない」と彼は言った。


 門を通り、庭に入った。彼女はそれじゃあ、と言って新しい家に入った。彼はその後ろ姿を見送ったあと、古い方の家に行った。靴を脱いで、玄関に上がったが、Tはまだ眠っているみたいだった。小さないびきが聞こえてきていた。木村は冷蔵庫から無糖の炭酸水を出して飲んだ。昨日買ってきて、使わなかったものだ。喉が渇いていたらしく、五百ミリリットルのペットボトルをあっという間に飲み干してしまった。そのあとで座って考え事をしていた。そのうちに眠くなってきて、また布団に戻って寝た。夢は見なかった。白いもやのような空白が――あるいは空白のような靄が――終始彼を包み込んでいた。しばらくしてTに蹴飛ばされて目を覚ました。


「ほら! もう朝だ! というか昼だ! 人生は短いぞ!」


「オーケー……」と言って、彼はまた短い眠りに落ちた。


 その日は海に泳ぎに行った。海水浴場はかなりの人出だった。はしゃぎ回る子供たちやら、髪を明るい色に染めた若者たちやら、ビキニを着た若い女性たちやら、外国人やら、様々な種類の人たちで賑わっていた。木村はTに水着を借りた。海に入るなんて小学生のとき以来だった。彼はあまり泳ぎが得意ではない。


 一方のTは水泳用の海水パンツを穿いて、ダッシュで海に突入し、沖の方へと泳いでいってしまった。遠くの方にイルカの姿が見えた。海の家では大音量で音楽を流していた。木村は恐る恐る海の中に入った。少し泳いだが、あとは何をするでもなくぷかぷかと浮かんでいた。そうやって見る青空はなかなか綺麗だった。Tの姿を探したが、今ではどこにいるのかも分からない。そうやっているうちに、浮き輪を付けた小さな男の子が流れてきたので、砂浜の方にゆっくりと押していってやった。母親がやって来て、ありがとうございます、と言った。いえいえ、と木村は言った。


 全身日焼けをして帰ってきた。車の中で珍しくTは無口だった。音楽もかけなかった。途中国道沿いのファミレスに寄った。そこでハンバーグ定食を食べた。さすがに今回は払うよ、と木村が言ったので、Tは折れた。食事中もあまりしゃべらなかった。「泳ぎ疲れたんじゃない?」と木村は訊いた。


「うん。そうかもしれん」とTは言った。そして遠い目をして何かを見つめていた。何か、木村には見えないものを。


 Tの実家に帰ってきたときには、すでに夜になっていた。古い方の家へ行き、まずはビールを開けた。それを飲み干してしまうと、ふと二人の間に「哀しみ」がりた。それは木村にはお馴染みのものだった。いつも、どこにいても付いてくる。退屈さと、むなしさと、無力感が入り混じった感情。何かを求めているのに、それが得られないときにやって来る感情。Tといるときには、そのような哀しみに覆われることはあまりなかった。常に彼が動いていたからだし、おそらくは意図的に、そこから目を逸らそうとしていたからだ。しかし、海から帰ってきて、なぜか彼らはそれに包まれてしまっていた。ふう、と一つ木村は息をついた。Tはまだ遠い目をしていた。チクタクチクタクと時は過ぎ去っていく。ゴホン、と一つ木村は咳払いをした。


「どうやら我々は、また袋小路に行き着いてしまったみたいだ」と木村は言った。「逃げ場はない。どこに行っても一緒なんだな。きっと。遊び回っても、それ●●はずっと付いてくる。君が感じているのは……たぶん、そういうことなんじゃない? つまりは?」


「俺は……」とそこでようやく我に返ってTは言った。「海でさ、フラストレーションを発散させるつもりだったんだ。もう、とにかく全力で泳いでさ。かなり沖の方まで行ったよ。でもまあそんなことは子供の頃から慣れているんだ。なんということはない。でもさ、ふと顔を上げるとさ、先の方にイルカが見えた。何頭かいたかな。そいつらは明らかに俺に微笑ほほえみかけていた。いいかい? こっちにおいで●●●●●●●、と彼らは言っていたんだ。もし来れるものならね●●●●●●●●●●、と。俺はもちろん行こうとしたよ。なぜなら人間でいることはあまりにも退屈過ぎるからだ。イルカになれたらいいとどれだけ思ったことか。でもね、次の瞬間、彼らはすごい速さで大海原に消えていってしまった。俺がどれだけ速く泳いだところで追い付けっこない。この話の骨子は何なのか? つまり自然は偉大だ●●●●●●、ということだよ。あっちにはね、制限というものがない。本当に素晴らしいんだ。でも砂浜の方を見てみろよ。うるさい音楽。ギャアギャア騒ぐガキ共。まずいアイスクリーム。いいか? 俺は人間の文明に失望したんだ。前からそういう傾向はあったがね、あのとき心から失望したんだよ。それでただぷかぷか浮いていたんだ。ああ、シャチかサメが現れて、俺を食ってくれないかな、と思いながらね。でもそんなことは起きなかった。やがて腹が減ってきたので、砂浜に戻った。人間の世界にな。そのあとでさ、排気ガスに汚れた街とか、巨大なパチンコ屋とか、刑務所みたいな学校とか、民家とか、そういうあらゆるものを見ていたらさ、どうも気が滅入っちまった。たぶんね、俺は自分の心の不毛さを他人ひとのせいにしているだけなんだと思う。それは認めるよ。心理学的に言えば……何と言えばいいのか分からないが、そう、責任転嫁●●●●だ。きっとね。俺はひどくうんざりしている。主に自分自身に対して、だ」


「別にそんなに落ち込むことはないよ」と木村は言う。「これはいつものあれ●●さ。東京にいるときにも感じていた。そしてこれから東北の実家に帰っても一緒だと思う。退屈さ。灰色の空気。虚無感。いつも一緒だ。哀しみ●●●。僕らはきっと……いつまでも遊び続けるわけにはいかないんだろうね。どうもそんな気がしている。というのも……そう、僕らは本心をごまかすことはできないからだよ。どこかでそれと向き合わなくちゃならない。どうやって、かは分からないけれど……」


「どうやって、って、腹を決めて自分と向き合うしかないんだよ。それしかない。それを知っているにもかかわらず……俺たちはカブトムシ捕りをして楽しんでいるんだ、というふり●●をしている。自分で自分に言い聞かせるためだよ。ここには哀しみなんて存在しないってね。でもそれは嘘だ。それは……欺瞞だ。俺はどうすればいいんだろう? 今、ここで?」


「たぶん時間をかけるしかないんじゃないか、という気がするね。きっと」と木村は言った。「逃げたいときにはきっと逃げるしかない。それは……そう、我々がまだそれほど強くはないからだ。その哀しみに向き合うほどにはね。だから人並みに何かにしがみつかざるを得ない。でもいつかもっと先には……我々は強くなって、カブトムシ捕りをしたりせずに、酒も飲まずに、歌も歌わずに……それと向き合うことができるかもしれない。その先に何が見えるのかは……分からないけれど」


「君はその先に本当の自由があると考えているんだろ? 違うか?」


「それを自由と呼んでいいのかどうかは分からない」と木村は言った。「ただ何かがあるかもしれないと感じるだけだよ。だから……ここで落ち込んでいても仕方がない。きっと」


「でもこの空虚さを埋めることができるものを俺は知らない」とTは言った。空のビール缶を見つめながら。「君には分かるかい?」


「僕には分からない。何も●●分からない●●●●●。僕に分かるのはそのことだけだよ。自分は何も分からない●●●●●●●●●●。なにしろ測量士Kだからね。永遠に彷徨さまよう」


「カフカは小説を書いてそれに対抗しようとしたんだ。でも俺は……まだそこまでのレベルに達していない。俺の書くものはさ、勢いしかないんだ。ただ勢いだけなんだ。ふと気付くとね、誰にも理解されない、不毛な場所に取り残されている。荒野みたいなものだ。荒野」


 二人は少しの間不毛な荒野について考えていた。どこまでも続く、誰もいない、荒野。


「しかし絶望しているわけじゃないんだろ?」と木村が訊く。


「もちろん」とTは言った。「苦しいが、絶望はしない。それは俺のポリシーに反する。本当のギリギリまで努力する。あとのことは、またあとのことさ」


「それはなかなか賢明な姿勢だと、僕は思うね」と木村は言った。そして二人はまたビールを開けた。


 翌日の早朝、木村はそっと部屋を出た。顔を洗い、髪を整え、外に出る。もちろんTの妹にまた会えるかもしれない、と思ったからだ。でも庭でうろうろしていても、彼女は出てこなかった。彼は仕方なく昨日と同じコースを一人で散歩した。昨日の「哀しみ」はまだ身体に残っていたが、それでも実際に身体を動かしていると、多少気分は良くなってきた。彼は頭の中で解決しそうにない問題を、グルグルと考え続けていた。人間は何のために生きるのか。そもそも生きることに価値はあるのか。俺とTはこれからどうやって生きていったらいいのか。そして彼女……。何かしらの結論に達した、と思う。ああ、これで安心することができるぞ、と思う。でも次の一歩を踏み出したときにはもう、別の問題が浮き上がってくる。彼はそれについてもまたグルグルと考え続ける。ふと高校のときに好きだった女の子の顔が浮かんでくる。彼女は今どこで何をしているのだろう? 彼女がどこの大学に行ったのかも彼は知らなかったのだ。俺はいったい……何を求めてこんな土地にいるのだろう?


 朝食を取ったあとで、彼は帰り支度をした。荷物をまとめ、新しい方の家に挨拶に行く。父親は仕事に出ており、母親だけが残っていた。どうもご迷惑をおかけしました、と彼は言った(Tはすでに車の中で待っていた)。とても楽しい時を過ごすことができました、と。母親は福井のお土産を持たせてくれた。彼らが代々作り続けている高級な和菓子。あとは近所で買った地酒の詰め合わせ。帰ろうとしたときに、妹がりてきた。もう行っちゃうんですか、と彼女は言った。もう少しいればいいのに、と。彼女はまっすぐ木村の目を見ていた。木村はなぜか少し赤くなった。「新幹線の予約があるものですから」と彼は言った。


 Tが運転し、駅まで乗せていってくれた。ここから電車に乗って、新幹線が停まる別の駅まで向かう。Tは昨日とは打って変わってペラペラとしゃべり続けていた。もっともその視線の奥には、例の哀しみの影が見えた。二人とも何か大事な感覚を共有しているんだな、と木村は思う。おそらくはだからこそ、Tは俺を選んだのだろう。我々はある意味では呪われている。というのも自分で自分をごまかし続けることができないからだ。たしかにそうだな。たしかに俺は……あと十年くらい経ったあかつきには、それと面と向き合わなくちゃならないのかもしれない。それは自分のためだ。誰かのためじゃない。あくまで自分の魂のため……。


 駅に行く前にコンビニに寄って、Tがいろいろなものを買ってくれた。グミとか、バナナとか、缶コーヒーとか、タバコとか。


「タバコは吸わないよ」と木村は言った。


「違う違う」とTは言った。「これはさ、旅先で人にあげるんだよ。そして会話を交わすんだ。そのためのツールなんだよ」


「なるほど」


「いいか? よく見れば面白い人間で世界は溢れているんだ。というかさ、どんな人間にだって、歪んだ、興味深い部分があるはず●●なんだ。俺はそう信じている。だから君も信じてほしい」


「信じるよ」と木村は言う。「でも相手もタバコを吸わなかったら?」


「そんときはこの梅干しグミをあげればいい。すんげえ酸っぱいから。君は殴られて病院送りだ。ハッハ」


「それは嫌だな」


「嫌なら応戦するのさ。シュッシュってな。ほら!」。Tはそこで木村に右フックをお見舞いしようとした。木村は慌てて避ける。「なかなか筋が良いな」とTは言う。「プロボクサーになったら? シュッシュ!」


「まさか」と彼は笑いながら言う。「ほら、もう行こう。遅れてしまう」


「分かった。分かった。仕方ないな、マジメ君は……」


 一人になったとき、木村がほっとしたことは事実だ。しかしそれでもなお、福井に行ったことを後悔してはいなかった。Tの視線から世界を眺めることは、彼にとっても大きな刺激だったのだ。まるで今までずっと暮らしてきた部屋の、思いもよらないところに、新しい入り口がいたかのような気分だった。その先にはまた新しい小部屋がある。彼はそこに入る。そこには窓がいていて……。


 ふともう彼とは会わないかもしれない、という思いが頭に浮かんできた。新幹線に乗り換えて、一路東北を目指していたときのことだ。それはなかなか頭を去っていかなかった。二度と会えない、というわけではないだろう。でも長い間会えなくなるかもしれない、と彼は思う。それはおそらくは辛いことだろう。何しろTのほかに気持ちを通じ合わせることのできる友人を彼は知らなかったからだ。それでもなお、一人で東京での生活を生き抜いていくことが自分にとって必要なのだ、という予感もあった。孤独で、退屈だとしても、それを身を持って通り抜けることにこそ意味があるのではないか、と。その結果どこに行き着くのかは分からない。ただの退屈な測量士になって終わりなのかもしれない。でもそれだけではなかろうという思いも彼の中にはあった。Kが城を目指したように、俺もまた何かを目指しているのだ。自分でそうと気付いていなかったとしても、だ。それは目に見えない。名前も持たない。でも存在している。そう、心のずっと奥の方に……。


 案の定しばらく連絡は来なかった。東北の実家で数日過ごしたあと、また東京に戻ってきた。あの福井での鮮やかな――しかしそれでいて物悲しい――体験のあとでは、目に見えるほとんどのものが退屈で、生気を失って見えた。何人か地元の友達にも会ったが、結局のところ彼らの言っていることに興味を持つことはできなかった。俺は少し変わりつつあるのかな、と木村は思う。


 東京に戻ったあとは単調な日々が続いた。アルバイトをして、休みの日には散歩をした。ときどき電車に乗って遠くに行くこともあった。知らない街。彼はただひたすら歩き回って、そこにある「退屈さ」を吸収していった。うらぶれた場所が彼の好みだった。以前はそうでもなかったはずなのだが、徐々に興味が変わってきたみたいだった。シャッターの下りた商店街。道端でおしゃべりをしている老女たち。橋の下の落書き。潰れたパチンコ屋。納屋に貼ってある、数十年前のものと思われるビールの広告のポスター。若い女性が微笑ほほえんでいる。彼女は今では何歳になっているのだろう、と彼は思う。


 アルバイトで貯めた金を使ってデジカメを買った。それでそのような退屈な光景を写していった。退屈さに近付き、細部を見れば見るほど、世界は違った様相を呈するようになる。彼はそのことに気付きつつあった。アスファルトを割って出てきた名前も知らない野花。昆虫の死骸。ガードレールのさび。そのようなものたちが今彼の心を惹いていた。こんなことをTに言ったらどうなるかな、と彼は思う。「若いのにそんなものに興味を持つなんて実に君らしいな」とか言うのではないだろうか? 彼はそれらの写真をTに見せたかった。ほかの人間には知られなくてもいいが、あの男だけは別だ。彼らはやはり特別な絆でつながっていたのだろう、と思われる。俺は結局のところ、ほかの人間たちに興味を抱くことができなくなりつつある、と木村は思った。


 そしてまた、大学が始まった。


容器 (2)』に続く


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