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5-10.アメリカからの使節

アメリカ使節ビッドルの来航

翌1846年には、浦賀沖にアメリカの軍艦2隻がやってきました。1845年2月にアメリカ下院にて、日本との通商を求める使節派遣が提議されたことを受けての来航でした。クッシングへ出したものの、果たされなかった日本との交渉開始です。ちなみにこの時点では、アメリカは太平洋側までを自国領土としていません。

東インド艦隊司令官ジェームズ・ビッドルが全権として任命され、日本側の開国の意思を確認すること、そしてその意思があれば通商条約を締結することが目的として与えられていました。ビッドル率いる軍艦2隻は、帆船であったものの、のちのペリー艦隊4隻(蒸気船2隻含む)と比べて、乗員数はほぼ同等、備えられていた大砲の数は、ペリー艦隊の約2倍にも及んでいました(出所:「<論説>ビッドル来航と海防問題/上松俊弘」P68)。清からの帰途に日本にやってきたのです。幕府は、警備担当の川越藩、忍藩の藩主の出陣を命じ、アメリカ艦隊を200を超える船で包囲しました。藩主の出陣を幕府が命じるのはおよそ200年振りのことです。それだけ警戒したのだと思います。

しかし、ビッドルは幕府からの通商拒否、外国との交渉は長崎のみに限るとの書面を受け取ると、そのまま帰って行きました。もし、ビッドルの目論見が成功していたら、私たちはペリーの顔ではなく、タイトル画像のビッドルの顔を記憶したことになります。

この受け渡しの際、ちょっとしたトラブルが発生します。書面は浦賀奉行所の船でおこなわれることになっていたのですが、多数出ていた日本の船の中で、ビッドルは川越藩の船に乗り込もうとしたのです。川越藩士は、これを手で払い、ビッドルは倒れてしまうのです。この事態に、ピストルを構えるアメリカ兵と刀に手をかける川越藩士。まさに一触即発でした。これを、浦賀奉行所の通詞がとりなし、またあらためて奉行所からの謝罪をすることによって、事なきを得たのです。この時には、従来の警備担当川越、忍の両藩に加え、周辺五藩からの軍勢も駆り出されていたのです。そのすべてに奉行所の指揮、連絡が行き届いていなかったことゆえの事故でした。

異国船応接係としての浦賀奉行所の確立

このビッドル艦隊の出航後、異国船取扱いについてあらためて評議がおこなわれました。論点は沿岸警備、打払令の復活、大船建造の三点(出所:「幕末の海防戦略/上白石実」P163)です。この時、廃止したばかりの「打払令」の復活が、議題として出ていたことに驚きますが、その三点の評議結果は、打払令の復活に対しては反対、大船建造も建造しても動かす人間がいないということで、これも見送りになります。沿岸警備に関してだけは、慌てて周辺の藩兵を駆り出すのではなく、従来の二藩体制から四藩体制(新たに彦根藩、会津藩が加わった)へ変更しました。そして、応接に対しては「礼儀を尽くす」こと、並びに陣羽織を着用しないといったことも浦賀奉行所へ指示されました。ことを荒立てないことに重点が置かれたと思います。

さらに、「其方共そのほうどもを始、組之ものともは異国人応接等之儀もっぱらニ取計」と、異国船の応接に専念するよう命じられ、浦賀での異国船対応の準備が整えられていったのです(出所:「上井白石同書」P168)。それまで常勤ではなかった「通詞」が浦賀に常勤するようにもなりました。

脱走捕鯨乗組員の日本上陸

1848年6月、北海道松前半島西岸(現北海道上ノ国町)に、15名の外国人が上陸してきました。松前藩からの知らせを受けた幕府は、長崎への移送を命じます。9月にはその15名の聞き取り口述書がオランダ商館長名で作成されました。それによると、彼らはアメリカの捕鯨船ラゴダ号の乗組員で、悪天候のため、浅瀬に乗り上げた本船から小舟で逃げてきたとあります。しかし、これは虚偽の内容で彼らは船長と衝突し、いわば職場放棄してきた者たちでした。

あるアメリカ人の日本上陸

同じころ、北海道利尻島に1人のアメリカ人が上陸しました。彼の名はラナルド・マクドナルド、母はアメリカインディアン、父はエジンバラ大学で基礎医学を学び、ハドソン・ベイカンパニーの幹部、オレゴン協定によりイギリスから譲渡されたばかりのオレゴン州アストリア生まれです。彼は、将来必要となるであろう日本とアメリカとの間で通訳になることを夢見ての密入国者でした。

彼もラゴダ号の船員同様に長崎へ送られます。移送途中、ならびに長崎での彼の様子は、非常に礼儀正しく、職場放棄してきたラゴダ号の船員たちが、何度も脱走を企てたりしたことと比べ大違いでした。長崎ではその両者は接触することなく、別々に抑留されました。

幕府が恐れていたのは、彼らが宣教を目的とした入国か、そして日本についての情報を探りにきたスパイなのではないかということでした。彼らの聞き取りは、オランダ商館長が行っています。マクドナルドも、本来の目的を隠し、捕鯨船の船長と衝突して1人でボートにのって下船したと話しました。

オランダ商館長は、その頃日本を出帆したオランダ船で、こっそりと中国駐在のアメリカ領事あての手紙を託していました。

アメリカ軍艦プレブル号

そうして、アメリカの軍艦プレブル号が自国民の受け取りを目的に長崎にやってくるのです。1849年4月のことでした。日本とプレブル号のグリン艦長との間をオランダ商館長がとりなし、ラゴダ号の乗組員とマグドナルドはアメリカへ帰って行きました。

アメリカは軍艦の派遣といった、力を見せつけたことが漂流民のスムースな受け取りにつながったと認識します。実際は、翌年のオランダ船で送還することは決まっていたのですが、前述したように、外国船への取り扱いが穏便なものになったことを、オランダが発信しなかったため、幕府の方針転換を知らなかったのです。

続く



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