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6-3.独立戦争

有益なる怠慢

イギリスのアメリカ植民地統治は、植民地側からは「有益なる怠慢」と称され、基本的には不干渉の姿勢で植民地側の自由裁量を大幅に認めていました。イギリス本国からみれば、北米大陸にも及んだ対フランス戦争への協力を望んでいたからでした。「実に穏やかに支配され、きわめてわずかしか課税されず、ほとんど抑圧を受けない人びと」(「大英帝国という経験/井野瀬久美惠」P44)という状態であったのです。そうして、それが脅かされたとき、植民地側がイギリス本国に対して噛み付き、牙を向けたのです。

発端

それは、「フレンチ・インディアン戦争」と呼ばれる1754〜1763年にかけての対フランス戦争でした。イギリスはこの戦争に勝利し、フランスからミシシッピ川以西の土地を獲得して、北アメリカからフランス勢力を一掃したのです(現カナダのフランス植民地も全てイギリスへ割譲された)。それまで、現在のアメリカ合衆国の5分の1程度だったイギリス植民地の面積が、3分の1にまで広がったわけです。しかし、これにより、国債を発行して賄った多大な戦費をどうするか、さらには新たな領土をいかに統治するかという課題に直面し、そのための費用の一部を植民地に負担させることにしました。具体的には課税の強化です。これが植民地側の大きな抵抗をうみ、最終的にイギリスからの独立戦争へとエスカレートするのです。

イギリスの「商業革命」

17世紀後半から18世紀前半にかけてのイギリスは、「商業革命の時代」といわれ、コーヒーや紅茶、タバコや木綿といった非ヨーロッパ製品が大量に流入し、それまでのヨーロッパ中心だったイギリスの貿易が、急速に非ヨーロッパ化した時期だった。17世紀末の時点でイギリスの総輸出量の57%(総輸入量は32%)は北米、西インド諸島を示しており、この比率がますます高まっていた。アメリカはタバコや木綿、藍などの生産地であっただけでなく、イギリス製品の一大消費地でもあった。(出所:「大英帝国という経験/井野瀬久美惠」P44)

独立への意思

イギリスへの抵抗が全植民地で一枚岩であったわけではなく、しかも、当初から独立を求めていたわけでもありません。特に急進的だったのが、北部のマサチューセッツと南部のヴァージニアにおいてでした。「自由を与えよ。しからんずんば死を!」という、パトリック・ヘンリーによる有名な演説(1775年3月)がありますが、彼はヴァージニア植民地議会の議員でした。武力衝突は、その演説の翌月にボストン郊外で始まりますが、この段階でも250万人程度の植民地人口のうち、独立を目指す愛国派(パトリオット)は80万人ほどでしかなく、イギリス国王に忠誠を示す王党派(ロイヤリスト)が4〜5分の1程度の50〜63万人、その他100万人以上の人びとは中立の立場であったといいます(出所:「大英帝国という経験/井野瀬久美惠」P53)。

独立宣言

戦争の過程において、1776年7月に「アメリカ独立宣言」が出されたのは、「独立しなければならないのだ」という理由と決意を示すものでした。武力衝突が始まっても本国との和解を信じ、分離独立に踏み切れない人びとに対し、明確な意思の統一を図る必要があったからです。

武器・装備と人員で圧倒的に不利な植民地側が、本国に勝利できたのは、フランス、スペイン、ロシアの軍事的支援(直接、間接支援含む)があったからで、植民地軍の力だけでは勝利は困難でした。特に、長年にわたってイギリスと敵対してきたフランスは、ここぞとばかりに植民地側に援軍を送り、1778年にはアメリカの独立を承認しています。1781年に、ヨークタウンで約8,000の兵の降伏を余儀なくされたイギリス軍の敗北は、フランス海軍の海からの包囲があってのことです。

これにより、イギリス本国においては独立承認の流れが加速します。また、国内においてもこの戦争は不人気でした。同じ言葉を話し、プロテスタントでもあり、かつ生活様式まで自分たちと同じ植民地の人びと相手の戦争に人気がでるわけがありません。
1783年9月にパリにおいて講和条約が結ばれ、イギリス本国は13植民地の正式な独立を認め、アメリカ合衆国が誕生することになったのです。

続く


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