10-14.ハリスの出府を認める
再びハリスとの交渉
下田での対ハリス交渉に戻ります。井上は江戸から戻ると、再びハリスとの交渉を始めます。下田に戻った3日後の8月27日、井上は「今回格別の儀により出府は認める。ただし、今すぐというわけにいかない。大統領からの国書を将軍に提出することは国法がそれを許さない」と、江戸での申し合わせのとおり、出府は認めると伝えましたが、大統領の国書を将軍は提出することはこれまで通り拒むことを伝えました。
ハリスは、国書を他国の君主に親呈するのは「万国一般」の礼であるとして、それを退けます。それに対して、井上は「幕府から大統領へ国書を将軍に渡すことは国法で禁じられている旨の書簡を書く」とまで言いますが、受け入れられません。また、このやりとりは容易に結論が出ないことから、話を「重大事件」に持っていきますが、それもハリスに拒否されます。江戸での申し合わせがまったく実行できない状況でした。また、ハリスは「いずれ露・英・仏などの大国からも同様の申し出(国書捧呈)があるはずであるが、このような扱いでは必ず『異変』を生じることになろう」と、威嚇まで加えます。
「奉行」とは忍耐強いものだ
「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」の註によれば、これ以降、ほぼ毎日わたってハリスと激論が繰り広げられたようです。9月2日の交渉では、ハリスは、「ただ江戸の指令を待つだけ」の奉行を面詰し、「本当に全権を持っているのか」とまでも問い詰めました。9月4日、7日の交渉の模様が書かれた「下田表聞書」(日付は9月8日)は読んでいて悲痛です。会談に同席した役人(作者不明)の書いたものです。
「下田奉行両人は米人に付け込まれ、むざんに申し伏せられ、一言の返答も言うに及ばなかった。この上は我らが腹を切らなかったら、江戸へ申し訳が立たないが、何卒懇意の人情をもって、勘弁してくれるようにと、聞き苦しいひたすらの詫び言。米人いよいよその威高さが増していった。アメリカ合衆国の使節として大統領より大命を受け、その使命を果たそうとしているのだから、人情をもってその国命の重さを捨てるのは筋違いである。」とまで言われています(出所:「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P292)。
続けて、この作者は、「悪口愚弄の扱いを受けても、御奉行を勤めるほどの人は忍耐強いものだと感心した」とまで書いています。
この8日、下田にハリスが長い間待ち焦がれた米艦ポーツマスが入港します。この作者はそれを「滞在の米人等、龍の雲を得るなり」と表現しています。当然のことながら、下田奉行は「ハリスが船に乗って直接江戸へ向かってしまう」ことを恐れました。
ついにハリスの要求をすべて認める
ポーツマスの入港をうけ、下田奉行はハリスが将軍と対面の席で大統領の書簡を老中に提出すること、及び出府の期日について「速やか」に指示するよう、江戸へ要請しました。
江戸では下田奉行からの上申を全て認め、9月12日、堀田は御三家ならびに溜間詰の諸大名に対して、ハリスの出府・登城・謁見を許可した旨を伝えました。これまでの議論を打ち切り、その方向へ舵を切らせたのは、言うまでもなく米艦ポーツマスの来航です。
溜間(たまりま)詰の大名とは、幕府の重要政策の諮問を受ける、家格的に御三家、御三卿に次いで高い譜代大名の中から特に選ばれた数家。幕府成立当初は四〜五名の定員であったが、この頃は15名近くになっていた(出所:「Wikipedia「伺候席」」。
堀田のこの告知においては、「世界の形勢変革及び候については、御国においても、寛永以来外国御取扱い向きの御制度、御改これなき候にては相成るまじく、アメリカは、条約も相済み、和親の国にも相成り候儀につき、右官吏儀、この節参上の儀御差許しこれあり、登城御目見をも仰せつけられるべく思召し候。」(出所:「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P301、一部漢字を改めた)と書かれています。これは4月に出された目付系の海防掛の上申に沿ったもので、「鎖国制度廃棄の宣言」ともいうべきものでした(出所:「日本開国史/石井孝」P237)。これまでの経緯、詳しい内容を知らされていない大名にとっては、青天の霹靂に近しいものだったと思います。
つづく
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