6-2.13の植民地と黒人奴隷
13の植民地の特徴
アメリカの植民地は、それぞれ統治の主体が異なっていた13の地域から構成されていました。同じ地域でも時期により変わったこともありますが、「王領植民地」「領主植民地」「自治植民地(国王からの特許状を与えられた事業会社が主体)の3つの形態がありました。これらは、18世紀半ばまでにそれぞれに特徴を持ちながら、順調に発展を続けます。13のそれらは、南部(「ヴァージニア」「メリーランド」「ノースカロライナ」「サウスカロライナ」「ジョージア」)、ニューイングランド(「ニューハンプシャー」「マサチューセッツ」、「ロードアイランド」、「コネティカット」)中部大西洋岸(「ニューヨーク」「ニュージャージー」「ペンシルヴァニア」「デラウェア」)の3つにわけられますが、「イギリス帝国の歴史/秋田茂」の中で、秋田氏はそれらを次のように概括しています。
「北米大陸の植民地は、北部のニューイングランドや中部のニューヨーク、ペンシルヴァニアのように、主要輸出商品(ステープル)をもたない『無用な植民地』、あるいは本国産業と競合する商品を生産しかねない『危険な植民地』と、南部のヴァーニジア、メリーランドなどのタバコ植民地、南北カロライナやジョージアなどのインディゴ(藍)や米を生産する植民地から構成されていた」(「イギリス帝国の歴史/秋田茂」P48)
ニューイングランド、および中部大西洋岸の植民地では、農業、漁業が盛んとなり、造船業や製材業が発達しましたが、世界商品をもってはいませんでした。一方の南部では、タバコ、砂糖、米、藍などの農産品の生産が中心で、特にタバコは世界商品として競争力を持ち、小規模のプランターにより生産されていました。タバコは、高品質ではあるが未加工の乾燥葉のまま、イギリス本国へ輸出されました。本国は、その輸入のうち80%以上をヨーロッパ大陸へ再輸出しています。植民地側は、このタバコの輸出により、本国から生活必需品(雑工業品)を購入・消費することができたのです。一方、本国側の雑工業品の生産者は、ヨーロッパ市場で十分な競争力を持てなかった代わりに、アメリカ植民地を輸出市場として確保できたのです。南部のタバコプランターの労働力は、当初こそ白人の年季奉公人が主でしたが、タバコ需要の拡大とそれに応じた栽培量の増大に、労働力を黒人奴隷に求めるようになっていきます
アフリカから送られた黒人奴隷の数
いったい、どのくらいの黒人奴隷がアフリカから連れてこられたのだろうか。2001から2005年にかけて、新たに公開作成されたデータベースを元にしたイギリスの歴史家、D・エルティス、D・リチャードソンによれば、1501年から1867年までにアフリカから「輸出」された奴隷の数は1,250万人、そのうち、仕向地に到達した奴隷は1,070万人とされている。劣悪な船内環境で、航海途中での死亡率は14.5%にものぼっている(出所:「奴隷船の世界史/布留川正博」P24〜35)。最も多く奴隷が「輸入」された場所はポルトガルの植民地であったブラジル(480万人)で45%を占め、ついでイギリス領西インド諸島(225万人)21%となっている。イギリス領北アメリカへは1601年から1867年で39万人と推計されている(出所:「布留川正博前掲書」P25の表より)。
今なお残る人種問題の発端
植民地での奴隷人口は1680年代から増え始め、1720年になるとヴァージニアの総人口88千人のうち27千人近くを、メリーランドでは総人口66千人のうち13千人を占めるようになります。また、サウスカロライナでは、総人口17千人のうち、奴隷人口は12千人で、七割を黒人奴隷が占めていました。白人奴隷主は、彼らの武器をもっての反乱を非常に恐れました。特に黒人奴隷の方が圧倒的に多いサウスカロライナではなおさらのことです。
1739年には、それが現実のものとなります。60人の奴隷がスペイン領への逃亡を図り、20名の白人を殺害したのです。その日のうちに鎮圧されましたが、以後巡回パトロールの強化、奴隷取締法の整備、密告の奨励といった反乱阻止のための方策がとられるようになり、それが白人と黒人の隔離を決定的にして、今なお残るアメリカの人種問題に続いていきます(出所:「アメリカの歴史(上)/紀平英作編」P59)。
資本主義と奴隷制
オリンピックくらいでしか、その国名を目にしたり、耳にしたりすることがないと思われる南米カリブ海の国トリニダード・トバコ共和国。その初代大統領エリック・ウイリアムズは、「資本主義と奴隷制」(ちくま学芸文庫、訳:中山毅)という本を著しています(1944年)。彼は歴史学者でもありました。ウイリアムズ・テーゼとして知られる彼の論考は、「奴隷貿易と奴隷制がイギリス産業革命の展開に直接的あるいは間接的にかかわっており、産業革命が成立し産業資本が確立すると、今度は逆に、その収益性の低下が19世になって奴隷貿易と奴隷制の撤廃をもたらした(「秋田茂前掲書」P82)」というものです。
ウイリアムズは、奴隷貿易の利潤がどれほど大きかったのか、本国経済に対してどれほどの貢献をしたのかということを論証、多くの奴隷貿易船の利潤が100%を超え、時には300%に及ぶ利益を上げたとしました。
もちろん、それに対する反論(奴隷貿易船の利益は大きくない、本国経済に与えた影響も微量に過ぎない)もあり、一時期、論争を引き起こしたらしい。現在では、計量経済史の発展と、奴隷貿易船の精緻なデータベースの存在などから、彼の主張した莫大な儲けは否定されているのではないでしょうか。詳しく追ってはいません。
続く
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