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1-17.新たな来訪者スペイン

1584、九州平戸

この年、新たにスペインから宣教師が九州平戸にやってきます。ポルトガルがほぼ全域を席巻した南シナ海の中で、スペインの唯一の拠点は、マゼランが世界一周航海の途上で上陸(1521年)したフィリピン(セブ島)でした。そもそも「フィリピン」という名前は、当時スペインの皇太子であったフェリペの名を冠したもので、「フェリペの島々」とスペインが名づけたものです。マゼランは島民に服従とキリスト教への改宗を強要して反発をまねき、そこで殺されています(最終的に世界一周を成し遂げたのは彼の部下たちだった)。1565年にスペインはフィリピンの多くの島々を征服、領有し、1571年にマニラ(ルソン島)を建設しました(スペイン領フィリピンとなり、マニラはその首府となる)。そしてポルトガルと同じように、南シナ海へも乗り出すようになり、中国や東南アジアの商品を買い集めるようになります。

新たな「銀」の流入

スペイン人の貿易の原資は、ポトシ銀山(現ボリビアにあり、石見銀山と同様に世界遺産となっている)から産出される銀でした。マニラにはそこからの銀が、アカプルコ(メキシコ)を出航して太平洋を横断してきた船で運ばれてくるようになったのです。日本の銀だけでなく、南アメリカ大陸からの銀が流入するようになり、中国から安価な大量の綿・絹製品、生糸がいっそう南シナ海に集まってくるようになっていきます。その中国製衣料は現地だけでなく、スペイン本国やメキシコにまで運ばれ、現地の絹織物業者からその市場を奪うまでになってしまいます。中国の絹製品が世界の市場を席巻したのです。

世界を覆う中国製品

絹製品だけではありません。中国から持たされる商品は、世界のどこでも人気を博しました。

「16世紀末にはリスボンのひとつの通りだけで、少なくとも6軒の中国陶器の専門店がならんでおり、ゴアの病院では、つねに中国製の皿で食事が出されていたという。1603年にオランダ船が拿捕したリスボン行きのポルトガル商船には、1200箱の中国生糸と、20万個の中国陶器が積まれていた。」(「東アジア/羽田」P159)
 
中国製品の人気は、ヨーロッパだけではなく、南アメリカの非征服民の有力者にまで広がっていた(出所:「東アジア/羽田」P160)というのだから驚くしかありません。中国の商品は、ヨーロッパ人によって世界中に広められたのです。その触媒を果たしたのが、ほぼ同時期に大量に流通していた日本と南アメリカ大陸の銀だったのです。

また、同大陸原産の農作物も、ヨーロッパだけでなくアジアへも多く運ばれ、その後の食文化の一旦を担うようになっていきます。イタリア料理に欠かせないトマトソース、そのトマトは南米が原産ですし、じゃがいもやとうもろこしも南米原産であり、この時代以降にヨーロッパへもたらされています。さらにいえば中国四川料理といえば、とうがらしを多用した辛さが有名ですが、このとうがらしも南米原産で、同じ頃に中国へもたされているものです。それまでは中国でも胡椒が辛味のもとでした。

日本を舞台に新たな争い

スペイン来日の背景は、アメリカ大陸とアジアを結んだネットワークを作り上げた中での必須のことだったかも知れません。海路を通じて世界をつなげたポルトガルとスペインでしたが、1580年にスペイン王フェリペ2世がポルトガル王を兼務することになり、(ポルトガル王はスペイン王の従兄弟であり、そのポルトガル王が後継者を指名せずに死去したことが原因)。王国としても一体化することになります。

信長の後を継いだ豊臣秀吉の時代、ポルトガルに加えて新たにスペインという国がこの国の歴史に登場してくるようになったのです。それはポルトガル系のイエズス会と、スペイン系のアウグスチス会、ドミニコ会、フランシスコ会といった修道会の争い、そしてそのすぐあとに、オランダ、イギリスという今度はプロテスタントの両国が日本にもやってきて、カトリック対プロテスタントという新たな争いが、日本でも繰り広げられるようになるのです。

続く


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