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3-9.「中国」との関係その2

制限される日本船

勘合貿易が開かれると、倭寇(前期)の活動は一旦鎮静化します。しかし、1523年に日本船の寄港先であった寧波にんぽーにおいて、大内氏と細川氏の争い(大内氏が細川氏の船を焼き払い、接待所とされていた建物にも放火して逃げ去った)が起こり、それ以降、明は日本船の来航を警戒して厳しく制限するようになるのです。それも原因の一つでしょう、倭寇(後期)の出現回数は16世紀半ば(1553年)から再び増加に転じ、倭寇の大頭目であった王直が処刑される1559年までの7年間で437回を数えるほどです(出所:「倭寇/田中健夫」P218の資料による)。その背景には、この頃から爆発的に産出されるようになった日本の「銀」と、新たに東シナ海まで進出してきたポルトガルの存在があったことは前述したとおりです。

日本船の渡航禁止

頑なに海禁政策をとってきた明も、1567年になると許可を与えた船に限って民間貿易を許可するようになります。そうせざるを得なかったというのが正しいでしょう。しかし、あくまでも日本船の入港と、日本への出航だけは禁止し続けました。とはいえ、中国以外の場所(東南アジアなど)経由で、日本船と中国船の出会い貿易は制限できるはずもなく、商品(明からは生糸、日本からは銀)は日明の間を流れ続けていました。

その後、秀吉の朝鮮出兵もあり、明は日本との国交を完全に閉ざす。家康は何度か使節をおくり、国交の再開を試みるも、成功はしなかった。その後、明から清への王朝交代と、いわゆる国内「鎖国」の政策によって、正式な国交は結ばれることはなく、日本と中国との正式な国交は1871年まで開かれることはなかった。

王朝交代「明」から「清」へ

明王朝は、1644年に北方の民族(満州族)の建てた王朝「清」に代わられます。ちょうど、日本の長崎をオランダ、中国との専用の「口」として、「鎖国」システムを完成させた頃です。清は成立当初は明朝末期の貿易形態をとっていました。決められた場所で、許可を得た船だけの民間貿易の許可です。

しかし、明の再興を目論む海上勢力が、盛んに海から清の秩序を脅かしていました。東シナ海を航行する船は、その彼らの海上勢力の旗を立てていなければ安全に航海することができませんでした。その勢力のトップは鄭芝龍ていしりゅう。彼は日本人を妻にもち、その子鄭成功ていせいこうは、近松門左衛門作の人形浄瑠璃、のちに歌舞伎の演目になった物語の主人公です(国姓爺合戦こくせんやがっせん)。鄭成功は、幕府に明朝再興のための支援を求めたりしましたが、拒絶されています。3大将軍家光の時代です。
(このあたり、記事「哀しき台湾」で前述)

「海」を遮断

一方の清政府は、鄭の勢力を完全に遮断するため、福建を中心に広東から山東にかけて、海岸線から約15キロ以内の地帯の住民を内陸に移住させる政策(遷界令せんかいれい)を1661年に発令、鄭は海上に孤立して台湾へ本拠地を移すようになります。25,000の兵力が台湾へ移ったといいます。翌1662年には、そこを拠点としていたオランダ(東インド会社)の勢力を台湾から追い落とします。

オランダは大いに慌てました。幕府に中国産生糸提供の大見栄を切ったのは、台湾という中国産生糸の集積地があったからですが、そこを追い落とされたからです。一方の鄭側も、日本へ持ち込む生糸の入手ができなくなります。中国本土に近づけない、もしくは近づけてもモノがないからです。王朝勃興期の清の強力な政治権力が、遷界令の実効性を担保しました。ほどなく、鄭の勢力は滅んで行きます。

強力な統制のもと「海」を一部開く

その後清は、1681年に遷界令を解除し、1684年には展界令てんかいれいを発布して、民間貿易を許すようになります。許すといっても、完全な自由な状態でありません。上海、寧波、廈門あもい、広東の四つの港に設置された「海関」と呼ばれる貿易管理の役所で、入港税と、貨物への課税が徴収されました。

そうして、清と日本の間に民間の貿易が開かれることになるのです。とはいえ、日本船が来航することは許されていません。清からの船を受け入れるだけです。台湾から追われたオランダは、トンキン(現ベトナム)を新たな中国産生糸の入手先とします。

続く


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