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「歴史」というもの

変体仮名

必要にかられて「大日本古文書幕末外国関係文書/東京大学資料編纂所」にあたっている。大正9年に発行されたものの復刻版(昭和47年)である。いわゆる一次資料といえるものだ。漢字は当然ながら全て昔のもので、文体は変体漢文の候文。相当な時間を要するが、これはなんとか読める。問題は、ところどころに出てくる「変体仮名」である。これの解読ができない。

そもそも変体仮名は約200種あるらしい。似たような形も多い。さまざまなアプリを試してみたが、どれも満足するものではなかった。

歴史の研究者は、どうやって学んだのだろう。数多くのそれにあたりながら覚えていくしかないのだろうか。

変体仮名が使われた前掲書(古文書)の内容を読み下したものが、徳富蘇峰の「近世日本国民史」や「日本思想体系/幕末政治論集」にある場合は、それらと比較しながら、「古文書」の変体仮名がどう読まれているのかを紐解いている。これは読書ではなく、作業。比較対象がない場合はお手上げである。

信用ならぬ

なぜ、そんな苦労をしょいこんだかといえば、「それほんとか?!」という疑問がぬぐいきれないからで、「出所はどこ?」を気にせずにはいられないからだ。架空の歴史小説ならばそんなことは気にせず読めるかもしれないが、事実を元にしたような、例えば司馬遼太郎の一連の著作のようなものや、小説だか実際の歴史なのかがわからないような本は、今やわたしにとって一切信用ならず、amazonで買ってみて後悔したもの数知れず。これはある意味不幸だとも思っているが、もはやどうにもならない。

特に、司馬遼太郎の小説世界をずっと歴史そのもの、真実だと思い込んでいるのは、かなり害があるとさえ今は思っている。

どの事実を選び取るか

「歴史は解釈」といわれる。単なる事実の羅列でないことは当然だ。だとすると、解釈よりも前に「どの事実を選び取るか」が最初に来るはずで、その時点で既に、書く人の主観が入り込まざるを得ない。マガジンで章分けして投稿している文章も、わたしが選び取った事実をもとにしているので、わたしの主観、思いは当然はいっている。気をつけていることは、その「事実」の「出所」を明らかにしていること。

ならば「出所が明らかになっていればいいのか?」というと、それだけではない。例えば、「出所:東スポ」と「出所:日経」とあったら、前者は「眉唾もん」だと思うだろう。選び取る側が、その大元を信用しているか否かが一番最初の解釈なのだ。

ところが、学者とよばれる人でも、出所を新聞記事として、さも事実であるかのようにそれを取り上げ、それを事実として歴史をかいているのだから驚く。その新聞が「東スポ」なのか「日経」なのかを気にしないのだ。あるいは、わかっていてもわざと書かない。おそらく後者だろう。

次いで彼らの常套文句が「海外から多くの非難が寄せられた」だ。「おいおい、海外ってどこだよ」と突っ込みたくもなる。もちろん書いていない。

(わたしは「日経」がすべて信用に足るとは微塵も思っていない。あくまでも例である。)

心はくらくなる

「日中15年戦争」という言葉があるが、それにはずっと違和感を感じてきた。事実として「15年も戦争してない」し。ところが、2年ほど前に読んだ本で心底驚いた。その本には1894年の日清戦争の開戦から1945年までの戦争を「東アジア50年戦争」と書いていたのだ。まさに空いた口がふさがらないとはこのことかと思った。著者は東京大学名誉教授、専門は日本経済史らしい。

もしかすると、そう遠くない将来に、1874年の台湾出兵まで遡って「70年戦争」とまで言い出す人が出てくる?!。ふさぎ込んでしまう

おわり





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