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3-10.清朝中国

長崎の中国人

長崎には、明の時代から多くの中国商人が拠点を構えていました。幕府は、オランダへの厳しい制限とは逆に、中国商人に関しては特に制限をつけず、長崎のどこにでも居住を認めていました。中国人にキリシタンはいないということからだったと思いますし、西洋人と比べ親近感がちがいます。

遷界令発布から展海令発布までの23年間に、長崎に入港する中国船は毎年2〜30隻程度でした。東南アジアに拠点を構える中国船がほとんどです。それが、展海令発布の翌年(1685年)には85隻、1688年には194隻もの中国船が長崎に押し寄せました(出所:「海と帝国/上田信」P344)。そのため、その翌年幕府は長崎への入港を年間70隻に制限するようになります。その一環として、中国人は長崎市内の「唐人屋敷」とよばれる一角に収容され、こちらも隔離されるようになりました。それまでは自由に滞在できていたことに制限を加えたのは、盛んに横行する密貿易に対する取り締まり、そして増大する一方の「銀」の流出に歯止めをかける必要があったからです。日本の銀もその産出量に大きな陰りが見えてきていたのです。

華夷変態かいへんたい


その頃新たにやってきた中国人は、以前の中国人とは異なり、皆弁髪べんぱつという満州族のいで立ちだった。清がその風俗を強制したからである。それまで漢族=「華」は、東方の異民族に「夷」という字を当てていたが、その意味は「未開の」「野蛮の」というもの。隣国が漢族から満州族の国へ変わったことを、当時の日本の儒学者は「華夷変態(かいへんたい)」と表した。

清の最盛期を支えたモノ

やや時代を進めますが、次の18世紀の100年間は、清の「盛世」とよばれています。前世紀末には1億5千万人の人口だったのが、この世紀で3億人を超えるほどの爆発的な増加となりました。それを支えたものは、アメリカ大陸原産作物のとうもろこし、じゃがいも、さつまいもなどであったといわれています(出所:「海と帝国/上田信」P375)。これらの作物は、水稲や小麦などの古くから栽培されている穀物が栽培できないような山地の傾斜地や荒地で栽培することができたので、主要作物と競合することなく、食料の供給量を増大させることができました。増え続ける人口を支えるために、政府が積極に指導、奨励したものでした(出所:「海と帝国/上田信」P377)。

伝統中国の風俗


今のわたしたちが、「中国の伝統」として、衣服だったり食べ物であったりをイメージする時、そのほとんどは「清」の時代を起源としているものです。

例えば、「チャイナドレス」は乗馬用の服だったために腰までのスリットが入っていて、そもそもは下にズボンを着用していたものです。騎馬が常態であった満州族の衣服です。「満漢全席」とよばれる中華料理の贅を尽くした宴席料理も、清の時代に確立されたものです。さらには、18世紀になると、大量の中国人が東南アジアへ渡りました。貿易商人としてだけではなく、中国向けの輸出商品をつくる農場や工場の経営者(資本家)として、またはそこで働く労働者としてです。それが今に続く「華僑」のもとになっていくのです。

ここまでのまとめ

「1.西洋との出会い」
ここでは、ポルトガル人が種子島にやってきてた日本人と西洋人と初めての出会いの遠因を探るため、1415年のポルトガル人の冒険まで遡っています。そして、その後の宣教師と信長、秀吉、家康の時代の西洋との蜜月関係までを書きました。

「2.変容」
ポルトガル、スペインとの関係も、蜜月から反目・弾圧へとかわり、代わってオランダ、イギリスという新たな西洋人が来日。キリスト教を禁教として、弾圧していく様子を書きました。

「3.出会いの結末」
西洋との最初の出会いの結末は、西洋人の完全追放という形で幕を閉じます。とはいえ、必要なモノ、ならびに情報の入手先としてオランダ一国のみを選択し、キリスト教と、それをもってくる仮想敵国への備えとして、その場所も長崎のみとしたことまでを書きました。

ここまで約100年の間の出来事ですが、その日本の歩みは、豊富な「銀」と、西洋に引けをとらない、もしくは西洋を凌駕していた軍事力をもっていたため、それが可能となったと言えるでしょう。

次回から新たに「4.それから」として、18世紀以降の日本と世界との関わりを見ていきます。波のたたなかった静かな海は、さざ波がたちはじめます。それは新たな恐れをはこんでくるものでした。

続く


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