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3.出会いの結末

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西洋との出会いは、反目からいよいよ追放にまでエスカレート。その後、この国は、極めて厳格にモノや情報の流れを統制していきます。この完成形としての「鎖国」は、日本人なら誰もが教わるこ… もっと読む
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3-9.「中国」との関係その2

制限される日本船 勘合貿易が開かれると、倭寇(前期)の活動は一旦鎮静化します。しかし、15…

Ryo
2か月前
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3-8.「中国」との関係

オランダ船とともに、長崎で貿易を許された中国船(昔ながらの呼称「唐船」と呼ばれた)につい…

Ryo
2か月前
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3-7.情報提供の義務付け

阿蘭陀風説書 幕府は、オランダに対して、貿易を許可する条件として情報の提供を義務付けまし…

Ryo
2か月前

3-6.余話として(オランダから取り寄せたモノ)

一般的なイメージと相違する実態 民放テレビで「石見銀山」を扱った番組を見たことがあります…

Ryo
2か月前

3-4.コミュニケーション問題

阿蘭陀通詞 日本人は、オランダ人とどう意思疎通したのでしょうか。言語の問題を少し説明しま…

Ryo
2か月前
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3-5.圧倒的な利益を生んだ日本貿易

オランダ船の来航サイクル オランダ船は、貿易が許されたとはいえ、自由にいつでも来航できた…

Ryo
2か月前

3-3.統制システム(「鎖国」)の完成

「長崎」が担ったもの その「鎖国」の完成は、教科書ではポルトガル人を追放した1639年とされています。前述の4か所(蝦夷、対馬、薩摩、長崎)のうち、長崎以外は、家康の時代にそれなりに整えられていたのに対し、長崎だけは家光の時代に固まりました。また、長崎以外が大名(藩)によって管理が担われていたのに対し、長崎だけは幕府の直轄でした。これは、他の3か所が「つながる」ための装置だったのに対し、長崎のみは「守る」ための装置だったからです。 何から「守る」のか。それはポルトガルやス

3-2.モノと情報の統制(「鎖国」)

ポルトガルの抗議と密航者 日本から締め出されたポルトガルは1640年に、ゴアとマカオの政庁が…

Ryo
3か月前
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3-1.出会いの結末、破局へ

追放される外国人 キリシタンの取締りは、激しさを増していきます。1624年にはスペイン人が完…

Ryo
3か月前