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3-5.圧倒的な利益を生んだ日本貿易

オランダ船の来航サイクル

オランダ船は、貿易が許されたとはいえ、自由にいつでも来航できたかといえば、決してそんなことはありません。当時は帆船ですので季節による風向きによって、総督府のおかれていたジャワ島のバタヴィアから日本へ来航できる季節が限られていました。彼らは毎年初夏にバタヴィアを出航し、夏に長崎に到着。10月末までに出航しなければならないと厳しく制限されてもいました。商館長は1年毎の交代であったので、新たな船が来航してから、それが出航するまで、新旧2名の商館長がいたことになります。

徹底的な私物検査

臨検も厳しく行なわれ、乗船人名簿と人員の付け合わせはもちろんですが、乗組員の私物の検査も厳重に行なわれていました。キリシタンにつながるものがあるかどうかが目的です。彼らの私物は、帰帆するまで樽にいれて封印されました。乗組員下船後の船室も封印され、動かせる大砲もすべて陸上げされる徹底ぶりでした(出所:「オランダ東インド会社/永積昭」P136)。

オランダ船が運んだモノ

ここまでの制限、不自由になぜ彼らはしたがっていたのか。我慢するだけの儲けが彼らにもたらされたからにほかなりません。日本の輸入品の大半は生糸、織物、鹿皮、鮫皮などの皮革類(オランダ国内の商品ではなく、すべて「アジア」で入手したモノ)で一貫していましたが、日本からの輸出品の主流は、銀、金、銅、樟脳しょうのうなど変化しています。日本は、オランダのもたらす商品に見合うほどの輸出商品を持っていなかったので、支払いに地金や貨幣をあてたわけです。小判という日本語が「日本のクーバン」とオランダ語で記録されているほどでした。

圧倒的な利益を生み出した日本貿易

日本商館がどれほどの利益をあげていたかというと、1649年の記録では、東インド会社のすべての商館(10か所)の中で、日本が第1位で、2位台湾、3位ペルシアの合計に匹敵するほどの額を稼いでいました。しかも4位以下の商館の利益額をすべて合計しても日本の半分にも満たないほどでした(出所:「オランダ東インド会社/永積昭」P139)。しかし、オランダはそれだけでは満足せず、同じく日本との貿易が許されていた中国船の来航を禁止させようと策動したり、タイやカンボジアの王朝が日本との貿易を求めていたのを妨害(拿捕して、積荷を没収したことさえあった)したらしいです(出所:「オランダ東インド会社/永積昭」P134)。なんと強欲な振る舞いなのかと思ってしまいます。

オランダ船の来航が最も多かったのは、1660年代の年10隻、それ以外は平均で年5隻程度。18世紀初頭からは2隻、18世紀末からは年1隻に制限されるようになる。

日本の「銀」がフェルメールを生んだ!?

「茶の世界史/角山栄(中公新書)」によれば、オランダの繁栄は1640〜70年代がその最盛期とされているが、この繁栄を支えたのは日本の銀ではなかったか、日本からの銀輸出の最盛期と符丁を合わせたように一致しているからだといいます(出所:「茶の世界史/角山栄」P18)。

17世紀のオランダにはフェルメールやレンブラントなど、オランダが誇りとする世界的な芸術家が一気に出現していますが、それを生み出したオランダの繁栄の元は、日本の「銀」だったのかもしれません。

続く


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