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哀しき台湾その3

今回はまさに「哀しい」話。

横井・小野田両氏の帰国

当時小学生だったわたしが鮮明に覚えていること。グアム島から帰還(昭和47年/1972)した横井庄一氏、フィリピンルバング島から帰還(昭和49年/1974)した小野田寛郎氏。特に小野田氏は、「上官からの命令解除がなければ決して帰らない」と言い、その上官が現地へ出向いて任務解除命令を言い渡した時の写真は、脳裏に焼き付いている。新聞の一面だったと記憶している。

「日本は負けておりません。自分は日本に帰りたい」

ところが、小野田氏が29年ぶりに祖国の地を踏んだその年の年末。インドネシアモロタイ島で発見された日本兵のことは全く覚えてない。おそらく、その両名ほどの扱いにはならなかったのだろうと思う。

「中村輝夫」としっかりと自分の名前を書いたその日本兵は、台湾高砂族出身者だった。彼は、保護された時、このとおりのことを言い放ったのだという。当時ジャカルタの日本大使館付きの駐在武官は、中村と面会したことを

「言葉のみならず、敬礼など立ち居振る舞い、その礼儀正しさ、精神。まさに現役の立派な日本軍人の印象だった」

と回想した(「還ってきた台湾人日本兵/河崎眞澄」P30)。

結果的に彼が最後の「日本兵」だったにもかかわらず、日本人ではなかったことが、扱いの小ささになったのかも知れない。ただ、今思うと酷い扱いだ。

台湾島の原住民

台湾島の原住民だった人たちは、清朝からは「蕃族」「蕃人」と呼ばれ、差別の対象だった。(部族は複数あり、今現在台湾政府が認定している部族数は16であるらしい)

台湾を統治下においた日本も、当初は原住民をそう呼び表していた。「日本統治下の台湾/坂野徳隆」によれば、皇太子時代の昭和天皇が台湾行幸の際、その名称ではかわいそうだといい、そうして彼らを総称して「高砂族」と呼称することになったという(出所:同書P97)。正式には昭和10年(1935)のことである。

殺到する志願兵

日本は、昭和17年(1942)台湾において「陸軍特別志願兵制度」を導入、最初の募集は、1,000名の定員に対し425,961名(当時の台湾青年の14%に相当)が応募し、第2回には同じく1,000名の定員に対し601,147名が応募している(出所:Wikipedia「台湾人日本兵」)。なんとも驚く数字である。

その中の1人が、アミ族出身の「スニヨン」、日本名中村輝夫であった。当時22歳。志願兵は、地元駐在の日本人警察官などのもとへ、争って日本名をつけてもらいに行ったという(「還ってきた台湾人日本兵/河崎眞澄」P96)。

高砂義勇兵

厚生労働省の資料によれば、志願兵制度で集められた台湾人の軍人は約8万人、それとは別に「軍属」扱いとして13万人の台湾人が、日本軍とともに戦地へ駆り出された。その軍属扱いの中から高砂族出身者で構成されたのが「高砂義勇隊」であり、実質は軍人として戦った。台湾の山深い地で育った彼らにとって、ジャングル戦はお手のもの。密林で多大な働きを示した。

軍人、軍属含め約21万人の台湾人のうち、約3万人が亡くなり、台湾へもどることができたのは18万人だった。その最後が中村輝夫だった。

中村を待ち受けていたもの

昭和49年(1974)といえば、日中国交正常化からわずか2年。その正常化は同時に台湾との国交断絶を表す。日本人として戦ったはずの中村は、いつの間にか「台湾人」となっていた。日本政府は、インドネシア政府から彼の引き渡しを受けたものの、彼の希望もありすぐに台湾へ送り届けた。

中村には、日本政府から法の規定にしたがって帰還手当、未払い給与の併せて68千円が支払われた。また、それと別に特別の見舞金として200万円が贈られた。その他、閣僚や国会議員をはじめ多くの人から寄付が寄せられ、総額で1千万円もの金額が彼のもとに集まったらしい(「還ってきた台湾人日本兵/河崎眞澄」P84)。

台湾では彼の妻と、一人息子が彼を待っていた。台湾政府は、かつての敵国軍人だった彼の帰国を基本は無視した。彼への対応は彼の出身県政庁に委ねられるにとどまった。彼の妻はすでに再婚しており、それを妻から聞かされた中村は「軍国の妻がなぜ夫の帰りを待てないのか」と激怒したらしい(出所:「河崎同書」P78)。そうして、出身地の学校で開催予定だった式典にもでなかった。

彼は帰国して4年後、59歳で亡くなった。

台湾人に対する補償の実現

「日本人」の軍人・軍属に対しては、恩給法や援護法があるが、あくまでも国籍が「日本人」に限られ、当時日本人であった台湾人の軍人・軍属は対象外だった。日本政府が、台湾人の元日本兵、軍属に対し1人あたり200万円の弔慰金の支給を開始したのは、昭和63年(1988)。国会議員による特別立法だった。1993年3月末までに2万9913件の請求があり、計529億9000万円を支給したという(出所:https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00972/?pnum=2)。

*ちなみに、日本政府と中華民国政府は、日華平和条約締結時(昭和27年/1952)にこのことを双方ともに認識していたが、特別取極めで別で定めることとしていた。中華民国はこの取極め交渉に積極的ではなかったといわれる。すでに接収していた日本統治時代の財産(民間資産含む)が問題となることをおそれたから。当然、その事情は日本政府の無作為の免罪とはならない。

李登輝の言葉

文春新書に収められた「還ってきた台湾人日本兵/河崎眞澄」の巻末には、同書刊行によせて、すでに総統を退いていた李登輝が以下のことばを寄せている。

「日本統治時代に台湾人が学び、ある意味で純粋培養された勇気、勤勉、奉公、自己犠牲、責任感、遵法、清潔といった近代的国民としての素養、気質を、自らが誇りをもって「日本精神」と呼んだ。台湾近代化の原動力である。」(同書P214)

終わり


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