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1-11.ポルトガルの冒険は続くその2

さらに東へ

ポルトガルは、さらに東へ進んで、多くの商品が集まる市場を持っていたマラッカ王国(現マレーシア、インドネシアのいくつかの諸都市)を支配して、交通の要衝であったマラッカ海峡の支配を目論み、香辛料の一大産地であったモルッカ諸島(現インドネシア)にまで到達して、そこにも拠点を築くことになります。1513年のことです。ポルトガルが東南アジアの海域(南シナ海)にまで進出したことになります。マラッカ王国は後背地を持たない港市国家(港を中心として周辺海域を支配し、領域や人ではなく交易のネットワークを基盤とした国家)のひとつで、王国の富の源泉は、様々な地域からやってくる商品の取引にかけられる税金でした。
(現在でもマラッカ海峡は、シンガポール海峡と併せ、年間12万隻以上の船舶の航行がある)

南シナ海での交易の歴史

東南アジア海域での交易の歴史は7世紀までさかのぼれます。西アジア(中東)でイスラム世界が成立すると、インド洋でイスラム系商人の活動が活発化し、8世紀にはその活動が南シナ海にまで及ぶようになっていました(出所:「東南アジア史10講/古田元夫P19」)。10世紀に宋王朝(960〜1279)が中国を統一すると、中国の船が南シナ海に進出するようになり、イスラム系商人と、中国の商人がマレー半島の港で出会うようになります。J.L.アブー=ルゴド氏によると、この頃の南シナ海の海域は、その西のインド洋を中心としたネットワークに結びついており、それはさらに西のアラビア海を中心としたネットワークに結びついていたといいますから(「出所:ヨーロッパ覇権以前(下)」/J.L.アブー=ルゴド著/佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹訳)P52)、今でいうグローバル経済といってもいいかも知れません。

イスラム教徒がもっとも多いインドネシア

イスラム教徒が多いエリアと言われると中東や、北アフリカとイメージしがちですが、実は東南アジアが最も多いのです。インドネシアは、人口の約9割、2億人のイスラム教徒がいます。その遠因は上記の理由によるのです。

目を見張る「モノ」の行き交い

マラッカへ到達したポルトガルが見たのは、まさにその巨大な商業ネットワークであり、そこには、現地の東南アジアの人々の他に、中国人、インド人、アラビア人、そして日本人など、多くの商人が集まっていた大規模なものでした。ポルトガルが支配したマラッカ王国の市場には、84もの異なる言語が飛び交っていたともいいます(出所:「東インド/羽田」P六九)。ポルトガルが最初に進出したアフリカ東岸から、アラビア海へのルートは、その大規模なネットワークの一部分でしかなかったのです。そこで流通していた商品は、胡椒や香料といった当時の贅沢品だけではなく、インド産の綿布や、サゴ米(サゴ椰子からのデンプン粉)などの基本的な食糧も多くの割合を占めていました。国際的な日常生活品の分業がその巨大な商業ネットワークを構成していたのです。それはポルトガル人がやってくる500年も前から存在していたのです。彼らは、いわばそこに寄生しただけに過ぎず、大きな牛のお尻にとまったアブのようなものと言っていいかも知れません。ときにチクリと刺しますが、その巨体からすればどうってことなかったのです。アフリカ西岸域から東岸域、そしてインド洋、南シナ海にポルトガルが築いた各拠点を結んだ海域は、ポルトガルの「海洋帝国」、または「東方帝国」といわれますが、その内実はこんなものだったのです。「アジアという巨人の肩にのった」(アンドレ・グンダー・フランク氏の言葉)に過ぎないのです。

ポルトガルの貿易形態と実態

ポルトガルは、この海域で以下のような形態で航海と貿易おこなっていました。
第1は、当初望んだポルトガル本国とインド西海岸を結んだ貿易です。これは王室直轄、あるいは王室と契約を結んだ人々が所有する船を使ったもの。いわば公貿易です。

第2は、主体は同様ながら、特定の年に特定の地域間で行う独占的な航海と貿易。中国や日本などとの諸国間貿易がここに含まれます。しかし、後にその独占権が売買されるようになり、公貿易でありながらその実質は私貿易となっていきます。しかし、これら2つは合法的なものでした。中でも長崎〜ゴア間の利益がダントツで大きいものになります。

第3に、完全な私貿易で、これは非合法でしたが、完全に取り締まることが不可能であり、公貿易に携わる役人が、自らそれに手を染めるなど、多くの人々がそれをおこなっていたらしいです(出所:「東インド/羽田」P66)。

最後に「カルタス」と呼ばれた通行書の発行と、それによる税の徴収です。つまり、この海域内で商売をする全ての船にこの所持を義務付け、これを持つ船の安全は保証したが、持たない船の積荷と、船員の命は保証しないというもので、所持と同時に、船のポルトガルの拠点への寄港を義務付け、そこで税を徴収するというシステムです。広大な海域で果たしてどの程度の実効性があったのかは疑問ですが(面積のずっと小さい、アラビア海でも独占ができなかったので、実効性はほとんどなかったかも知れない)、後のイギリスの東インド会社もこのシステムを採用しています。

続く


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