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10-4.タウンゼント・ハリスの来日

慌てる下田奉行

ファビウスが長崎に到着してから約2週間経った1856年8月21日、蒸気軍艦サンジャシントに乗って、アメリカからタウンゼント・ハリスが通訳ヘンリー・ヒュースケンを伴い、下田に来航しました。

ハリスは、日米和親条約第11条の「領事規定」による下田来航でした。彼は初代アメリカの駐日領事としての役割をもってやってきたのです。前述したように、この規定は英語・オランダ語では、「どちらか一方の政府が必要とすれば18ヶ月後の下田に領事を派遣できる」という内容でした。

つまり、どちらか一方の政府の申し出だけで領事を派遣できるというのです。しかし、漢文版、日本語版では「両国政府が必要と認める場合に限って」とあり、「どちらか一方」ではなく、双方の合意の上となっていたのです。

ハリスは、この日、奉行への面会を申し出るとともに、3通の書簡を奉行所役人に手渡ししました。1通はハリスから下田奉行宛て、もう1通は江戸の老中宛て、さらには老中あてのアメリカ国務長官からのものです。江戸向けのものはすぐに送られました。ハリスが奉行に宛てた書簡には、「アメリカ合衆国のコンシェル、ゼネラールとしてこの地に任ぜられた」と書かれていました。下田奉行(岡田忠養ただやす)にとっては、まさに晴天の霹靂だったと思います。

ハリスの経歴

ハリスは元々外交官ではなく、13歳から働きながらひたすら読書に努めたいわゆる苦労人であり、高等教育は受けてはいません。しかし、43歳の時にニューヨークの教育局長となり、その在職中に貧困家庭のための無料中学校(のちのニューヨーク市立大学)を創立しています。教育局を辞してのち、主に太平洋とインド洋を股にかける貿易商人となりました。ハリスが45歳の時です。

ペリーが日本へ向かう途上で上海に立ち寄ったとき、中国にいたハリスは自らもその遠征に加えてくれるよう、ペリーに手紙を送りましたが、「軍人以外は乗せない」という方針で断られました。ハリスが外交官を志したのは、この頃からといわれています(出所:「ハリス日本滞在記(上)/坂田精一訳」P13)。

その後、香港か広東のいずれかのアメリカ領事の地位を求めて、盛んに猟官運動をしています。政財界の彼の友人からの国務長官や大統領宛ての推薦状が多く残されています。そうして、念願の日本派遣の命令を受け、同時にシャム王国(現タイ王国)との間の通商条約の締結も命じられて、日本にやってくることになったのです。当時52歳でした。

下田滞在についての交渉

ハリスが下田に上陸したのはその翌日8月22日です。玉泉寺に眠るアメリカ人水兵の墓を訪れたのです。ハリスは、玉泉寺周辺の印象を次のように記しています。
 
「柿崎(筆者註:玉泉寺のある場所)は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度も丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏に付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。」(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P14)
 
ハリスが下田奉行と面会と果たしたのは、8月25日。場所は、ペリーとの応接に使用した了仙寺です。この時は、儀礼的な挨拶のみで、日本側にはすでに幕臣となっていた森山栄之助が加わりました。奉行は昼食でもてなし、2時間ほどで会談は終了します。この日の日記でハリスはこう記しています。
 
「我々一同はみな日本人の容姿と態度に甚だ満足した。私は日本人は喜望岬以東のいかなる民族よりも優秀であることを、繰り返して言う」(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P24)

26日、自らの滞在を認めさせようとするハリスと、なんとしてもそれを断りたい下田奉行らの交渉が始まりました。日本側は、下田奉行所の支配組頭若菜三男三郎みおさぶろうが交渉役です。条約条文の日本側解釈や、地震に見舞われたばかりの下田の疲弊、並びに江戸での地震被害などを延々と繰り返しますが、ハリスは厳として応じません。あくまでも公的な資格として下田に駐在することを主張し、下田での準備ができていないのなら、江戸へ赴いて準備完了までを待つと述べます。

ここで若菜は折れ、一時滞在として玉泉寺を宿舎として提供することになります。ハリスの日記によれば、この日の会談は3時間続いたらしい。玉泉寺の提供を申し出られたハリスですが、最初は「下田ではない」という理由で拒否します(地名が柿崎だったから)。翌日も、交渉が行われますが不調におわり、ハリスが玉泉寺での一時滞在を受け入れたのは28日になってからでした。

玉泉寺にアメリカ国旗

9月1日、在府の下田奉行井上清直(川路聖謨の実弟)が下田に到着、以降岡田との2名体制になります。この日、ハリスと井上との初会談がおこなわれます。この日の模様を、ハリスは「あらゆる陳腐な反対論をくりひろげ、どうか退去してくれるようにと、私にむかって懇談した」と記しました。結局、この問題についてアメリカ政府と交渉するまでの当分の間として、ハリスが玉泉寺に滞在することを正式に認めました。ハリスが玉泉寺にアメリカ国旗を掲げたのは9月4日。ハリスはこう記しています。
 
「厳粛な反省―変化の前兆―疑いもなく新しい時代がはじまる。敢えて問うー日本の真の幸福になるだろうか?」(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P53)
 
この日、ハリスが乗ってきたサン・ジャシントは下田を出航しました。通訳ヒュースケンと、数名の下僕(中国人)とともに、ハリスの孤独な戦いが始まります。

ハリスは下田にやってきた井上を「私は新奉行の容貌を好まない。彼は陰うつで、猛犬のように無愛想な顔つきをしている。私は彼と争うことになるのではないかと懸念している(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P47)」と記した。しかし、井上はこの後2年以上にわたるハリスとの交渉を通じて、親密な仲になっていく。

続く


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