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5-5.アヘン戦争

勃発

清朝皇帝の命令によって広東に派遣された林則徐りんそくじょは全権(欽差きんさ大臣)を与えられて、1839年に広州に到着すると、外国商人から2万箱以上のアヘンを没収し焼却、商人から大きな反発を招きます。実力行使にでたわけですが、しかしその後もアヘンを運んでくる船は絶えず、イギリス商人との間で小競り合いが頻発します。

これを受け、イギリス本国では1840年4月に※遠征軍派遣の決議が可決され、インドで戦艦16、輸送船・武装汽船など33隻からなる艦隊が編成されます。

※イギリス議会は派遣への反対262票、賛成271票という僅差で派遣が決定しました。議会内では「不義の戦争であると」という声も大きかった(出所:「海と帝国/上田信」P503)。イギリスの名誉のために書いておきます。

川鼻せんぴ条約により一旦終結

イギリス艦隊は、林によって防備が固められた広東ではなく、北上して舟山島を占領し、寧波ならびに長江の河口を封鎖。1840年8月には北京に近い天津沖に到着してイギリス側の要求を示した外相の書簡を手渡しました。

天津にまでやってきたイギリス艦隊に驚いた皇帝は、林に開戦の責を負わせて罷免、左遷し、別の僅差大臣をたてて交渉しますが、香港の割譲を認めさせられます。1841年1月のことです。これは「川鼻(せんぴ)条約」とよばれますが、その後、清朝内で強硬派が息を吹き返し、欽差大臣を罷免、皇帝も条約の正式な締結を拒否します(この後も清朝は、一度合意した約束を破る常習犯になっていき、西洋諸国からの信頼を一切なくしていきます)。

再度の戦闘

これによって、再度イギリス艦隊の軍事行動が起こされます。制海権をにぎり、火力でも優るイギリス側が自由に攻撃地点を選べるのに対し、複数の拠点を防衛しなければならない清朝側の劣勢は明らかで、イギリスの軍事力は清朝を圧倒しました。1841年末から1842年冬の間は、軍事行動は停止されましたが、イギリスは春になると新たな遠征軍を加え、上海や長江と大運河の交差する鎮江ちんこうを攻略しました。8月に南京に迫ったイギリス軍に対し、清朝は城壁に白旗を掲げて降伏、8月29日にイギリス側の要求をすべて容認した「南京条約」が調印されて、アヘン戦争は終結しました。

無理やり広げられた貿易拠点

この南京条約によって広州1港に制限されていた海外との貿易港が5港に増やされ、賠償金の支払いと香港の割譲が定められました。知られているように、香港は1997年までイギリスの植民地でしたが、その起源はこの南京条約にあります。また翌年に締結された追加条約では、治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇承認などが定められ、完全な不平等条約となりました。清朝は、その後1844年に、アメリカとの間に望厦ぼうか条約、フランスとは黄埔こうほ条約を締結しました。イギリスとの条約(追加条約を含む)を踏襲したものとなっています。

清朝の態度

しかし驚くことに、戦争に敗れても清朝は自らの優位性にいささかも動揺はありませんでした。いわゆる自ら(華)こそが世界の中心だという(中華)思想です。この世界観からすれば、この条約締結は「武力を用いて自己の要求を通そうとする野蛮な者たちに少し譲歩しただけ」であったわけです。したがって、清朝は国家間で対等な関係を樹立したとは考えておらず、変わらず西洋人を「夷狄いてき」扱いし続けました(出所:「近代日本外交史/佐々木雄一」P39)。この戦争の結末は、清朝ではなく日本に大きな衝撃をもたらしたのです(後述)。

動き出すアメリカ(日本への第一歩)

時のアメリカ大統領ジョン・タイラー(第10代)は、アメリカの全権使節だったケイレブ・クッシングに、そのまま日本へ向かい、日本との交渉を始めるように指示を出しましたが、それはクッシングが清にいる間には到達せず、クッシングが日本に向かうことはありませんでした(クッシングは、17歳でハーバード大学を卒業してから法律家になり、のちに司法長官にまで出世している)。

西洋諸国の理屈

ヨーロッパでは1648年のウエストファリア条約(世界最初の近代的な国際条約)以来、「他国の権利尊重」という概念は明確しつつありました。しかし、清朝との交渉の中で中華思想との対立がはっきりとし、双方の論理がまったく噛み合わない場面が目立つようになります。ヨーロッパ(アメリカ含む)の外交担当者は、主権国家間の平等は、西欧キリスト教国家間だけでよしとする意識を持つようになりました。平等を求めるのなら、それに相応しい国家とならなければならないという理屈です(出所:「日本開国/渡辺惣樹」P117〜118)。

続く


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