見出し画像

9-4.日露通好条約

プチャーチン箱館・大坂に

ロシアのプチャーチンが帆走軍艦ディアナ単艦で10月(1854年)に箱館へ来航しました。しかし、そこでの交渉を拒否されると、そのあと突然大坂天保山沖に姿を現します。大坂は大慌てだったと思います。箱館への突然の来航の知らせも箱館から江戸へ届いていないうちに、今度は大阪からその知らせが江戸へ届けられます。大阪では町奉行佐々木顕発あきのぶと川村修就すみなりが交渉相手となり、江戸からの指示が来る前から、行き先を下田へ絞り込んだ交渉をプチャーチンとおこないました。プチャーチンは、「安全に下田へ入れるよう証書がほしい」との申し出をおこなったのち、その返事を待たずに、彼は突然大阪から出港します。

交渉場所は下田

大阪からの「ロシア船がそちら(下田)へ向かうだろう」という急報が下田奉行へ出されました。デイアナが下田沖に姿を現したのは12月3日でした。前年の対露応接掛(筒井・川路)に新任の勘定吟味役村垣範正のりまさが加わり、下田へ向かいました。村垣は、この年の夏から秋にかけて樺太へ視察に行っており、ロシアとの国境問題の担当でした。通訳は、ここでも森山(すでに普請役の幕臣になっている)が務め、12月22日から実質的な交渉が始まりました。

安政東海大地震

翌日12月23日に「安政東海大地震」が発生します。下田は地震とその後の津波によって壊滅的な被害を受けました。下田町856戸はほぼ全壊、3907名の住民中85名が死亡といわれています(出所:「明治維新史/石井寛治」P38)。この時、ロシア人は津波にのまれた多くの日本人を、海に飛び込んで引き上げて助けた他、「必要とあれば医者を派遣する」と援助をし、実際多くの日本人の治療をおこなったらしい。

「魯人は死せんとする人を助け、厚く療治の上、あんままでする也。助けらるる人々、泣きて拝む也。恐るべし。心得るべき事也」(「川路聖謨とプチャーチン/匂坂ゆり」P98)
 
川路は自らの日記にこう記しました。そして、この出来事のあとにはそれまでプチャーチンを「馬鹿なる使節」、ロシア人全般を「魯戎」、「蚕食を常とする魯賊」と蔑称していたのを、「魯人」と書き表す頻度が高くなったらしい。(出所:「匂坂ゆり同書」P98)

前年1853年3月には小田原地震、この年6月には近畿大地震が起こったばかりであった。この翌日には西日本一帯にも大地震が起こり、翌年1855年11月には安政大地震で江戸に甚大な被害が発生している。「黒船」の出現とかさなって、この大地震の頻発は人々の不安を高めずにはおかなかった。

ディアナの沈没

停泊中のディアナも津波により大破し、プチャーチンは、ディアナの修理場所の提供を求め、戸田(へだ)港(現静岡県沼津市)と決められましたが、ディアナはそこへ向かう途中、駿河湾の奥深く(現静岡県富士市宮島沖)で沈没してしまいます(1855年1月19日)。500名にも及ぶ乗組員を救助したのは、地元の村人たちでした。同船のロシア人マホフ司祭は「善良な。まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ!この善男善女に永遠に幸あれ」と手記で述べています(出所:「石井寛治同書」P38)。それは、船員たちを救助するために、厳寒の早朝から千人もの村人が浜辺に集まり、中には自らの衣服を脱いで、ロシア人に与える村人がいたことを目の当たりにしたからでした。

締結

そのような中で、交渉は一時中断を含みながらも続けられました。アメリカとの交渉過程にはなかった国境問題の確定を含むものでしたが、概ねアメリカとの条約に沿った形で進められ、国境に関しては択捉島とウルップ島の間を国境と定め、樺太(サハリン)は両国民雑居のまま、国境は定めないこととしました。この国境は、それまで自然に両国間で了解されていた境を、正式に国境と定めたものでした。条約は全9条からなり、1855年2月7日に日露通好条約として結ばれました。現在、北方領土の日が2月7日となっているのは、この条約の調印日によります。

この条約は、ロシアに箱館、下田、長崎を開き、下田または長崎に領事の駐在を認め、さらには双務的な領事裁判権が規定されたものでした。この領事駐在権、第6条において「若|《もし》止む事を得さる事ある時は魯西亜政府より箱館下田の内一港に官吏を差置へし」とありましたが、その後の条約附録で「西暦1856年より」と定められていました。江戸の阿部は、この条文を徳川斉昭に納得させることができず、川路にこの削除を再度交渉せよと命じますが、プチャーチンは「すでに本国へ送還した」として拒否します。しかし、ひたすら削除を願う川路の姿勢に、「もし、その時になって日本で準備が整っていないのなら、あらためて談判する」という文書を提出して(出所:「匂坂ゆり同書」P115)、5月4日に帰国の途につきました。

西洋帆船建造

乗って帰るべき船(ディアナ)を失ったプチャーチンは、幕府の協力のもとに、戸田港にて西洋式帆船をつくりあげた。船長24メートル、100トン足らずの大きさだったが、2本のマストを備えた西洋式帆船である。完成は4月26日。プチャーチンは同船を「ヘダ号」と名付け、それに乗って帰国の途についた。とはいえ、500名にも及ぶ乗員全員が乗れるわけもなく、ちょうど下田にやってきたアメリカ船を借り上げるなど、帰国の手段はヘダ号だけではありません(あらためて書きます)。

ロシア人技術者の指導のもと、それを作り上げたのは近隣の舩大工や人夫約200名だった。もともと伊豆半島は造船の盛んなところで、西洋人の指導があれば西洋型帆船を建造できるだけの技術水準に到達していたらしい(出所:「石井寛治同書」P39)。また、その後幕府は、伊豆韮山代官江川英敏に命じて同型の船七隻を戸田で建造させてもいる(出所:「石井寛治同書」P39)。

続く

タイトル画像:ヘダ号


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?